能楽研究家後藤和也氏の「金春月報」誌連載「能の表現」による【50音順】

金春流・演目よくわかり 詳細Guide

「よくわかり」は、能楽研究家後藤和也氏による金春流の演目についての詳細解説です。

あ行

藍染川 あいそめがわ 

あらすじから見てゆきましょう。「都の女が子の梅千代を伴い大宰府の神主を訪ねます。この子は神主が在京中に都の女と契りを結んで生まれた子でした。事情を知った神主の本妻が、嫉妬から偽の手紙で親子を追い返そうとします。その手紙を見た都の女は絶望し藍染川に入水してしまいます。そこへ神主がやって来て嘆き悲しみ神前で祝詞を上げます。すると天満天神が現れ女を蘇生させる」という内容です。

 〈藍染川〉の作者と典拠は未詳で、現在は観世・金春のみ現行曲です(宝生は近代になって廃曲)。〈藍染川〉は上演が極めて稀な曲です。筋の展開がメロドラマ的で上演効果を出すのが難しいのが一因と言えます。ただし、ワキ(大宰府の神主)・ワキツレ(左近尉)ともに重要な役で、ワキ方にとっては重い習事として大切にしている曲です。また、筋の機転を作り出す神主の妻をアイ(狂言方)が演じ、前シテ(梅千代の母)・後ジテ(天満天神)、子方(梅千代)と劇的な展開の曲だけにそれぞれの役に見せ場があるのが特色です。中でも物語の中で重要な働きを持つ文(手紙)を読む場面が三か所もあり、しかも読む役が、アイ・前シテ・ワキとみな違うというのも珍しく大きな特色です。現在、前シテ(妻)は入水後に中入リし、後場では別人格の後ジテ(天満天神)が登場し、正先に置いた出小袖を妻の亡骸に見立てるのが通例です。しかし、古くは前シテをツレとし、シテ(天満天神)が入った宮の作リ物を初めから出しておく形が古い演出と考えられています。死者を蘇生させる曲は他に〈竹雪(金春にナシ)・谷行〉があります。死者の蘇生は現実には不可能でやや安直ですが、観る方の境遇によっては、そこに救いを感じる方もおられるかもしれません。

※能の表現―今月の演目〈藍染川〉からー後藤和也
「中入リ・作リ物」の「リ」はカタカナ

葵上 あおいのうえ 

【葵上①】世阿弥の芸談である『世子六十以後(ぜしろくじゅういご)申楽談儀(さるがくだんぎ)』に「葵(あおい)の上の能に、車に乗り、柳裏(やなぎうら)の衣(きぬ)踏み含(くく)み、車副(くるまぞえ)の女に岩松、車の轅(ながえ)にすがり、橋がかりにて、『三(みつ)の車に法(のり)の道、火宅(かたく)の門(かど)をや出(い)でぬらん、夕顔の宿の破(や)れ車、遣(や)る方な』と(一声(いっせい)て遣(や)りかけて…」(本文は岩波書店『世阿弥・禅竹(ぜんちく)』を一部改。振仮名は筆者)とあります。訳は「〈葵上(あおいのうえ)〉では車に乗り、装束(しょうぞく)の裏地が柳色の衣を足が隠れるぐらいに裾長に着て、車に付き添う侍女(じじょ)役の岩松が、車の轅(ながえ)にすがり、橋掛(はしがか)リでシテ登場の一声(いっせい)を謡い、途中まで車を進めかけ…」(中央公論社『日本の名著・世阿弥』参照)となります。この記述から、近江猿楽日吉座の犬王が演じた〈葵上〉には、現在では出ない車の作り物に乗りシテが登場し、侍女(じじょ)(謡本では青女房(あおにょうぼう))もツレとして出ていたことが分かります。その後、青女房が出なくなったにもかかわらず、「青女房とおぼしき人の、牛もなき車の轅(ながえ)にとりつき、さめざめと泣き給ふいたはしさよ」とあったり、「あずまやの、母屋(もや)の妻戸(つまど)にいたれども」や、「あら浅ましや六條(ろくじょう)の御息所(みやすどころ)程のおん身にて、うわなり打ちのおん振舞(プるまい)、いかでさる事候(そオろオ)べき、ただおぼし召(め)しとまりたまえ…」など、本来は青女房の謡だったところを、照(てる)日(ひ)の神子(みこ)が代行していることが指摘されています(新潮日本古典集成『謡曲集』)。六條御息所は以前、「車争い」で葵上に辱(はずかし)めを受けたことがありました。シテが登場してから「破(や)れ車」、「浮世(うきよ)は牛の小(お)車(ぐるま)の…」や「およそ輪廻(りんね)は車の輪のごとく…」と、「車」が頻出することからも、この曲では、「車」が重要なことが伺えます(集成本『謡曲集』解題参照)。今は出ない青女房や車を想像して舞台を見ると、世阿弥時代の舞台の情景が浮かんで来るかもしれません。

【葵上②】〈葵上〉は世阿弥の芸談集である『申楽談儀』に近江猿楽の犬王(幽玄な芸風で足利義満を魅了し、世阿弥が幽玄(優美)な歌舞能を多く作り出す契機ともなった人物)が演じた記事があり、世阿弥の音曲論書『五音』にも〈葵上〉の引用があります。曲の分析と合わせ、近江猿楽で作られた〈葵上〉を世阿弥が改作したと考えられています。

ところで、室町時代の作者付である『能本作者註文』に「近江能」として〈安達原 クロツカ〉が掲げられています。〈黒塚〉が近江能である確証はありませんが、近江能とされる〈黒塚〉、そして〈葵上〉が、ともに鬼女の般若系であるのも興味深いところです。

〈葵上〉は『源氏物語』を典拠とする能の中では最古の曲とされています。『源氏物語』の「葵巻」を典拠としていますが、原典との相違点が多くあることも既に指摘(落合博志氏「源氏物語と能」『国文学解釈と観賞』平成6年11月)されています。例えば、シテの六条御息所以外は「葵巻」には登場せず、〈葵上〉作者が創造した人物です。また、梓巫による招霊、生霊との闘争、生霊の敗退、成仏といった曲後半の骨格となる話も「葵巻」にはありません。『源氏物語』を典拠としつつも「葵巻」の文章を全く引用しないという特色が落合氏稿に指摘されています。 同稿では「破れ車」についても考察がされています。「葵巻」からは葵上と六条御息所との車争いで御息所の車が壊されたとまでは読み取り難いのですが、中世の『源氏物語』梗概書である『源氏大鏡』・『源氏物語提要』・『源氏大概真秘抄』などには車自体が壊されたと記されており、それが車争い場面における中世の理解であったこと、さらに「破れ車」が打ち砕かれた御息所の自尊心をも表す語であることなどが指摘されています。

阿漕 あこぎ 

〈阿漕〉のあらすじから見てゆきましょう。「伊勢の阿漕浦で男が老人に会います。老人はこの浦が殺生禁断の地であり、昔、その禁を破り殺された男が自分であると告げ消えます。やがて、男の霊が現れ漁の様を再現し、地獄での苦しみを見せる」という内容です。

〈阿漕〉は作者付史料『能本作者註文』や『自家伝抄』には世阿弥作とありますが、信憑性に欠け現在は作者不明とされ、世阿弥以後の成立と考えられています。1532年(享禄5年)一条西洞院日吉猿楽勧進能(言継卿記)での演能記録が伝存する最古の記録です。ただし、金春流では金春安照の伝書などに言及があるものの、江戸時代には金春大夫家の正式演目ではなく、明治版金春流謡本の増補分で正式に組み入れられました(金春安明師『金春の能』)。

〈阿漕〉は「逢ふことをあこぎの島に引くたびのたび重ならば人も知りなん」(『古今六帖』三・鯛)を主題歌に、『源平盛衰記』八・「讃岐院事」を出典としながら、世阿弥改作の〈鵜飼〉と同様に密漁と殺生戒の構想をとり合わせたと考えられることが、既に指摘されています(集成本『謡曲集』「鵜飼」解題)。

三卑賎と呼ばれる類曲に〈鵜飼・阿漕・善知鳥〉があります。〈鵜飼〉も密漁と殺生戒を犯したことから、地獄に落ちますが最後には成仏し救済されます。それに対し、〈阿漕・善知鳥〉も〈鵜飼〉のように地獄に落ちその苦しみの様を見せますが、成仏による救済はなく、その苦しみのみが強調され具体的に描かれるという所に、世阿弥とは異質な〈阿漕・善知鳥〉の特色があります。なお、〈阿漕〉には和歌の引用などから風雅な印象も若干加味されているという指摘もあります(筑摩書房『能楽大事典』)。

〔update 2020.10.06 能楽研究家後藤和也〕

芦刈 あしかり

〈芦刈〉は世阿弥の音曲伝書『五音(ごおん)』の記述などから、世阿弥作と考えられる曲です。〈芦刈〉の重要なモチーフとして芦売りがあります。実は能の作品で「物の売り買い」に関する事が描かれるのは、極めて珍しい事なのです。能に描かれた売り買いについて見てみましょう。 中世に横行していた人身売買(桜川(さくらがわ)・自然居士(じねこじ)など)や、旅の宿屋(望月(もちづき)など)を除き、単純に「物を売り買い」することを扱った曲は、芦売りの〈芦刈〉、魚を買う〈合甫(かっぽ)・観世のみ〉、酒の売買の〈猩々(しょうじょう)〉と〈大瓶(たいへい)猩々・観世のみ〉と〈松虫〉、花を売る〈雲雀山(ひばりやま)〉、番外曲(現在演じられていない廃絶曲)では、「安(あん)」の字を買う〈安の字(あんのじ)〉だけが管見に入った曲です。〈芦刈〉の芦売りの場面は〈笠ノ段〉として芸の見せ場の一つになっていますが、芦売りを契機とした夫婦の再会、〈猩々・大瓶猩々〉は猩々の舞、〈松虫〉は亡き友を偲ぶ遊(ゆうぶ)、〈雲雀山〉も親子の再会が眼目の曲です。いずれの曲も売り買いそのものがテーマではなく、それを契機とした再会などのドラマを描くことに眼目があることが分かります。それに対し、狂言では〈合(あわせがき)・粟田口(あわたぐち)・隠笠(かくれがさ)・隠狸(かくれだぬき)・金津(かなづ)・河原太郎(かわらたろう)・鴈盗人(がんぬすびと)・柑子俵(こうじだわら)・昆布売(こぶうり)・薩摩守(さつまのかみ)・磁石(じしゃく)・舎弟(しゃてい)・末広(すえひろ)がり・煎物(せんじもの)・千鳥(ちどり)・鍋八撥(なべやつばち)・張蛸(はりだこ)・目近(めぢか)・鎧(よろい)・六地蔵(ろくじぞう)・若和布(わかめ)〉など多くの曲があります。狂言では売り買いそのものが人間ドラマとして描かれたり、お金のやりとりも頻繁に描かれ、文字通り現実社会を反映している点が特色です。能と狂言で「物の売り買い」だけを見ても、両者の描く現実の方向性の違いが良く分かります。なお、〈芦刈・猩々・松虫〉は世阿弥時代の曲であり(雲雀山もその可能性アリ)、能作の早い時期に売り買いを扱う曲が集中していたと言えます。

安宅 あたか 

〈安宅〉の作者は戦前の小林静雄氏説に基づく、観世(かんぜ)信光(のぶみつ)説が有力でした。しかし、表章氏の「観世小次郎信光の生年再検」により、信光の生年が通説よりも十五年ずれており、正しくは宝徳(ほうとく)2年生まれであることが判明しました。その結果、〈安宅〉の最古の演能記録がある寛正(かんしょう)6年には、信光はまだ16歳ということになってしまいました。16歳で〈安宅〉のような大曲を作るとは考え難く、現在は作者不明の曲となっています。

〈安宅〉には義経(よしつね)(判官(ほうがん))が子方として登場しますが、この子方に関する新しい指摘が天野文雄氏(「《安宅》《舟弁慶(ふなべんけい)》の判官と《海人(あま)》の房前(ふさざき)などは本来は子方の役にあらず」、『能苑(のうえん)逍遥(しょうよう)(中)』大阪大学出版会)にあります。現在は子方が演じる判官の役について、古い演能記録に載る役者の活動記録から、判官の役を演じた時の年齢を割り出して行きました。その結論として、慶長頃には成人の役者によって演じられていたと思われること、江戸時代前期頃までは、一座の大夫(たゆう)の跡継ぎのような位置にいる15、6歳の青年役者によって演じられるのが普通だったようである、と指摘されています。 なぜ子方になったか、ということに関しては野上豊一郎氏の「子方の起用によって二人の同等の者が対立する印象をさけるためであり、それこそ能がシテ一人(いちにん)主義に立脚した演劇であることを示す現象だ」という説が同書で引用されています。現在、成人が演じても良い役を子方が演じる主な曲は〈安宅・舟弁慶・海人・国栖(くず)・正尊(しょうぞん)・鷺(さぎ)・草子洗小町(そうしあらいこまち)・花筐(はながたみ)〉ですが、概して劇的な展開を見せる曲が多い印象です。想像の域を出ませんが、例えば義経と静に見られるように、能としては生々しくなること(現実的すぎる)を避けるため、子方を用いたのかもしれません。

敦盛 あつもり

〈敦盛〉の作者は世阿弥です。この曲は敦盛の霊が現れ、武将でありながら笛を愛好した敦盛による笛尽くし、合戦前の遊舞、敦盛の最期が描かれた修羅能です。世阿弥は『風姿花伝』第二物学ものまね条々で「修羅」について「源平などの名のある人の事を、花鳥風月に作り寄せて、能よければ、何よりもまた面白し。これ、ことに花やかなる所ありたし」と言っています。世阿弥以前の修羅能は鬼がかりの「面白きところ稀」な曲柄でした。世阿弥は、そうした修羅能を改革し「花鳥風月に作り寄せ」、風雅な修羅能を作り出してゆきました。〈敦盛〉では「笛」がそれにあたります。

ところで、通常の修羅能ではカケリ(武士の霊などが高ぶる感情や興奮を表す働事)が入り、合戦での最期の様が描かれることが多いです。しかし、〈敦盛〉にはカケリがありません。そのかわりに、典拠である『平家物語』巻九・敦盛最期にもある、合戦前夜の今様(いまよう)を歌い舞い遊ぶ場面を入れることにより、武将である敦盛が舞を舞うことに不自然さを感じさせない設定で舞を舞わせています。敦盛の舞の後は、敦盛最期の場面が描かれています。ややもすれば、舞を入れることにより、後場の焦点がブレるリスクがありながら、あえて武将である敦盛に舞を舞わせた〈敦盛〉は結果として成功作であり、かつ極めて個性的な修羅能となっています。修羅能で舞が入る曲は〈敦盛〉以外では金春禅竹(ぜんちく)の孫である金春禅鳳(ぜんぽう)作〈生田敦盛(いくたあつもり)〉だけで、両曲とも敦盛を扱った曲である事も興味深い一致です。

余談ですが、大河ドラマなどで織田信長が「人間五十年、化天(げてん)の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり…」と歌いながら舞う場面をよく目にしますが、これは能の〈敦盛〉ではなく、室町後期から江戸初期に流行した幸若舞(こうわかまい)の『敦盛』です。

海人 あま

【海人①】世阿弥の芸談集である『申楽談儀(さるがくだんぎ)』に金春権守(ごんのかみ)(観阿弥(かんあみ)と同時代の人で円満井座を代表する棟梁(とうりょう)の為手(して)。金春の座名は彼の芸名に由来。〈昭君(しょうくん)〉の作者)による〈海人〉所演の記事があります。「「あらなつかしのあま人やと御(おん)涙を流し給(たま)(エ)ば」、此(この)「御涙」の節(ふし)、金春が節也(なり)(中略)「乳の下を掻い切り玉を押し込め」などのかかりは、黒頭にて軽々と出(い)で立ちて、こばたらきの風体也(ふうていなり)。女などに似合は(ワ)ず」と記録されています。「金春が節」は金春権守作曲を意味すると考えられています。      

集成本〈海人〉解題にも指摘がありますが、〈海人〉は古作の能であり、その成立には金春権守所演の形態、世阿弥改作、現行形態と三段階を経ていると考えられています。〈海人〉は前場に重点がある曲で、前場だけでも独立でき、こうした例は古い能に見られる特色であることが、大系本備考に指摘されています。〈海人〉の改作にあたっては、世阿弥が舞を加えた可能性が高いと考えれています。〈海人〉は『志度寺(しどじ)縁起(えんぎ)』を出典とし、表現・詞章・内容とも直接的な影響が見られます。〈海人〉の房前(ふささき)が十三歳と設定されているのも、『志度寺縁起』に基づいています。現在、この房前は子方が演じていますが、天野文雄氏の「《安宅》《船弁慶》の判官と《海人》の房前などは本来は子方の役にあらず」(『能苑日逍・中・能という演劇を歩く』大阪大学出版会)によれば、古い番組と役者の活動記録から、〈安宅(あたか)・船弁慶(ふなべんけい)〉の判官(ほうがん)(義経(よしつね))は、本来、成人役者によって演じられていたことが確認されています。また、〈海人〉についても成人の役者が演じている記録こそないものの、〈安宅・船弁慶〉の例から、房前を成人の役者が本来は演じていた可能性が高いことが指摘されています。

【海人②】〈海人〉のあらすじから見てゆきましょう。「大臣の藤原房前が亡き母の供養のため、讃州支度の浦へ行きます。そこへ海人が現れます。その海人は房前の母を知っていて、死のいきさつについて語ります。『かつて、中国伝来の宝珠が竜宮に取られてしまいました。この地へやって来た藤原淡海は海人と契りを交します。淡海は宝珠を取り返せば生まれた子を世継ぎにすると約束します。海人は海に入り竜宮から宝珠を盗み、乳の下を切り裂いて宝珠を押し込み取り返した』と、母の最期を語ります。そして自分がその海人で房前の母だと告げ海中に消えます。

房前が母の法事を行い供養していると、母の霊が竜女となって現れます。母の霊は成仏できたことを感謝し舞を舞います」。以上が〈海人〉のあらすじです。

世阿弥の芸談集である『申楽談儀(さるがくだんぎ)』に金春権守(ごんのかみ)による〈海人〉所演の記事があります。「あらなつかしのあま人やと御(おん)涙を流し給(たま)へ(エ)ば」、此(この)「御涙」の節(ふし)、金春が節也(なり)(中略)「乳の下を掻い切り玉を押し込め」などのかかりは、黒頭にて軽々と出(い)で立ちて、こばたらきの風体也(ふうていなり)。女などに似合は(ワ)ず」と記録されています。「金春が節」は金春権守作曲を意味すると考えられています。 集成本〈海人〉解題にも指摘がありますが、〈海人〉は古作の能であり、その成立には金春権守所演の形態、世阿弥改作、現行形態と三段階を経ていると考えられています。〈海人〉は前場に重点がある曲で、前場だけでも独立でき、こうした例は古い能に見られる特色であることが、大系本備考に指摘されています。〈海人〉の改作にあたっては、世阿弥が舞を加えた可能性が高いと考えられています。

嵐山 あらしやま

 〈嵐山〉のあらすじから見てゆきましょう。「勅使一行が奈良の吉野から植樹された京都の嵐山へ花見にやって来ます。そこへ老人と姥が現れます。二人は嵐山の桜が神木であることを語ると、勝手子守の夫婦の神であると告げ消えます。やがて勝手子守の神が現れ舞を舞います。すると蔵王権現も現れ嵐山の桜の中で栄える春を祝福する」という内容です。

 〈嵐山〉の作者は金春禅鳳です。禅鳳は金春禅竹の孫にあたります。役者としてだけでなく〈生田・一角仙人・東方朔・初雪〉などの作者としても著名です。禅鳳の時代には風流能と呼ばれるショー的要素の濃い曲が多く作られました。〈嵐山〉でも通常ならクリ・サシ・クセで嵐山の桜について詳しく聞かせるところを大胆に削り、間狂言を工夫、見事な桜の作リ物の中で勝手子守の神が舞を舞い、そこへ蔵王権現が現れるという、見た目に派手で面白い曲になっており、風流能の典型的な曲の一つになっています。それだけに、前場にクセがなく、待謡もないこと、替間「猿聟」の創作、早笛で登場した後ジテが舞働を舞わないこと、また、前シテの老人が蔵王権現の化身ではなく、後ツレの男神である勝手の神の化身であるなど、異例な点が多く見られます。このことから、前シテがそのまま舞台に残り、後場には別役が登場してシテ的な立働キを見せる構成であった可能性も指摘(石井倫子氏『風流能の時代』)されています。

 禅鳳は粟田口勧進猿楽(1505年)で奈良から京都にも進出します。この時の初番が〈嵐山〉でした。〈嵐山〉について「観世という大和猿楽の花が京都に栄えている、そこへ本場の総本家、円満井金春という神が影向して、わが世の春を祝福するということであろうか」との指摘(香西精氏『能謡新考』)があります。

〔update 2021.03.31 能楽研究家 後藤和也〕

生田 いくた 

【生田①】

〈生田〉のあらすじは「敦盛の遺児が賀茂に参詣し、霊夢を得て摂津国生田へ向います。生田へ着いた夜に敦盛の霊が現れます。敦盛は生田の合戦を回想し、修羅道の苦しみを見せ、弔いを求め消える」という内容です。

〈生田〉の作者は金春禅鳳です。禅鳳は室町時代後期に活躍した能役者・能作者で第五十九世金春大夫です。確実な禅鳳作の曲として〈嵐山・生田・一角仙人・東方朔・初雪〉、番外曲(廃曲)の〈黒川〉が知られています。素材・構成・演出の独自性、華麗なショー的要素・子方の多用などが禅鳳作品の特色とされています。

〈生田〉にも子方が登場します。敦盛の遺児として、シテとワキよりも、シテと子方を中心に筋が展開すること、また、謡も比較的多く重要な役です。遺児が亡き父を訪ねるという設定も、修羅能としては異色です。〈生田〉では中ノ舞が舞われます。世阿弥作〈敦盛〉でも中ノ舞を舞いますが、修羅能の中で舞を舞う曲は〈敦盛・生田〉の二曲のみです。〈生田〉の舞の前の詞章は「親子おおむの袖ふれて、名残尽きせぬ心かな」であり、筋立て上はシテが舞を舞う必然性は感じられません。「華麗なショー的要素」として、舞が挿入されたのかもしれません。

【式能】第五十九回式能(2019年2月17日)で〈生田〉が演じられます。〈翁〉と能が五流(観世・金春・宝生・金剛・喜多)で五番、狂言四番が一部と二部に分けて上演されます。式能とは本来、江戸時代に江戸城で催された儀式(新将軍就任・婚儀・将軍世継誕生祝など)で演じられた能の形式を指します。番組順は〈翁〉→初番目物(脇能・祝言能、主に神がシテ)→狂言→二番目物(修羅能、主に武将がシテ)→狂言→三番目物(蔓物、主に優美な女性がシテ)→狂言→四番目物(雑能、物狂能を始めとした様々な曲)→狂言→五番目物(切能、主に鬼が中心)→祝言(半能の脇能)が正式な番組でした。以上のように五番立に基づいていますが、そもそも五番立は江戸時代に式能などで五流に一番ずつ曲趣が重複しないように割り当てるために作られた、演者側にとって便利な分類法でした。なお、番組の最後に祝言として脇能が半能(後場のみ)で演じられました。この名残が現在の附祝言です。江戸時代よりも演能時間が長くなった現代では、「式能」のような特別な催し以外では見られない番組立です。

〔update 2019.01.07(月)〕

 

【生田②】     

〈生田〉の作者は金春禅鳳(ぜんぽう)です。禅鳳は室町時代後期に活躍した能役者・能作者で第59世金春宗家です。祖父が〈芭蕉(ばしょう)・定家(ていか)〉などの名曲を残し金春流中興の祖と呼ばれる金春禅竹(ぜんちく)、父が金春宗筠(そういん)です。この二人の元で禅鳳は修業をしました。

能役者としての禅鳳は、明応2年(1493)に初めて室町御所で演能、永正2年(1505)には、京都の粟田口辺で4日間の勧進能を催すなど、奈良だけでなく京都でも活躍しました。

伝書も数多く残しており、『毛端私珍抄(もうたんしちんしょう)』『反古裏(ほごうら)の書』『五音之次第』『音曲五音』『囃子の事』や弟子の聞き書きである『禅鳳雑談(ぞうたん)』などが現存しています(表章氏・伊藤正義氏『金春古伝書集成』で読めます)。

能作者としても非凡で、確実な禅鳳作の曲として〈嵐山・生田・一角仙人・東方朔(とうぼうさく)・初雪〉、番外曲(廃曲)〈黒川〉が知られています。素材・構成・演出の独自性、華麗なショー的要素などに特色があると評されています。また、岩波大系本『謡曲集・下』にも指摘がありますが、子方の出る曲が多いのも禅鳳の特色です。〈生田〉にも子方が登場します。敦盛の遺児として、シテとワキよりも、シテと子方を中心に筋が展開するため、とても重要な役となっています。遺児が亡き父を訪ねて行くという設定も、修羅能としては異色です。敦盛に子供がいたという話は、お伽草子(おとぎぞうし)「小敦盛」にも見え〈生田〉は同書に基づくらしいことが、大系本で指摘されています。〈生田〉では舞(中ノ舞)が舞われます。世阿弥作〈敦盛〉でも中ノ舞を舞いますが、修羅能の中で舞を舞う曲は〈敦盛・生田〉の二曲のみです。

なお、シテのサシ「きを守る幽魂は」は、観世・金剛は「くを…」、宝生は「ぐを…」と異同があり、「き」は漢字を宛てると「棺」か、との指摘が大系本にあります。

一角仙人 いっかくせんにん

〈一角仙人〉の作者は第59世金春宗家で金春禅竹(ぜんちく)の孫である金春禅鳳(ぜんぽう)です。〈一角仙人〉のあらすじは「天竺波羅那(てんじくはらな)(こく)で一角仙人が竜神と勢力を争い、竜神を岩屋に閉じ込めたため、雨が降らなくなってしまいます。そこで扇陀(せんだ)夫人(ぶにん)が竜神を岩屋から出すため、仙人を訪ね酒を飲ませます。仙人は扇陀夫人つられて舞を舞った後に寝てしまいます。すると岩屋に閉じ込められていた竜神が現れ雨を降らせる」という寓話的な内容です。

〈一角仙人〉は『太平記』、『今昔物語集』を出典としています。また、古くは一角仙人を眠りから起こすアイ(末社姿の仙人)が登場していました。見た目に特異なシテの一角仙人、二人の子方が竜神として現れる大きな岩屋の作リ物、一つの謡もなくシテと楽を相舞する扇陀夫人、と視覚的に派手な異色の曲となっています。このような曲がなぜ誕生したのでしょうか。応仁の乱(1467)前後の金春禅鳳たちが活躍した時代は、派手な演出やショー性が高く、スペクタクルな、細やかな心理の描写よりも歌舞の美しさや面白さを見せる「風流(ふりゅう)能」と呼ばれる能が多く作られた時代でした。金春禅鳳の〈一角仙人・嵐山〉、観世信光の〈船弁慶・紅葉狩・竜虎(りょうこ)・玉井(たまのい)(上記二曲金春流にナシ)〉、観世長俊の〈江野島・輪蔵(上記二曲金春流にナシ)〉などが風流能と呼ばれる曲です。〈一角仙人〉は風流能を代表する曲です。 

なお、「風流能」という用語は、横道萬里雄氏により提唱(「夢幻能について」『文学』1957・9)されたもので、「劇能」の対義語とされています。 

井筒 いづつ

〈井筒〉の作者は世阿弥で、三番目物(鬘物(かずらもの)とも。女性をシテとし優美な舞を見せる曲)だけでなく、能を代表する名曲です。〈井筒〉の典拠は『伊勢物語』一七段・二三段・二四段で、特に二三段が中心です。ただし、単純に『伊勢物語』に拠(よ)って作られたわけではありません。そもそも『伊勢物語』の登場人物は「昔、男ありけり…」と言った形で表され、固有名詞などは明記されていないのです。それを〈井筒〉にあるように男を在原業平(ありわらのなりひら)、女を紀有常女(きのありつねのむすめ)とし、先に挙げた各段の話を二人の恋の物語とするのは、中世の『伊勢物語』の理解に基づいています。いわゆる古註釈(こちゅうしゃく)と呼ばれるもので、その事を最初に指摘したのが、岩波日本古典文学大系『謡曲集・上』〈井筒〉補注一四九(表章氏)でした。その後、伊藤正義氏を中心に多くの能が古註釈にもとづいて創作されていることが次々と明らかになりました。〈井筒〉においても、『和歌知顕集(わかちけんしゅう)』、『冷泉家流伊勢物語抄(れいぜいけりゅういせものがたりしょう)』などの古註釈に基づいて創作されていることが明らかになっています。

ところで〈井筒〉の後場に「移り舞」という語があります。この語について「誰かの舞をまねて舞う舞を意味する詞(ことば)と思われ、井筒の場合からは、乗り移って舞う意も考えられる」(大系本『謡曲集・上』補注七八)という指摘があります。この「乗り移る」イメージを前面に出した古演出があります。中村格(いたる)氏が「室町末期の女能」(『東京学芸大学紀要・25集』)で、室町末期の〈井筒〉には「かけり」の演出や「十寸髪(ますかみ)」の面を着用すると言った、物狂能(ものぐるいのう)的な現代とは異なる演出もあった事を指摘しており、この古演出での上演が他流で試みられてもいます。そうした異式の演出を生むほど、様々な解釈が可能な曲と言える作品です。

岩船 いわふね

〈岩船〉のあらすじは「新たに浜の市を立てるため、勅使が摂津国住吉の浦を訪れます。そこへ唐人の童子が現れ、浜の市のことや景色を愛でて、龍女の宝珠を捧げます。童子は自分が極楽の宝を積んだ岩船を漕ぐ天の深女であると告げ消えます。やがて、龍神が現れ八大龍王と共に宝を積んだ岩船を岸に引き寄せ、国土の繁栄を祝福する」というものです。

 〈岩船〉の作者は不明です。ただし、文正元年(1466年)に将軍義政御成能で観世演能の記録があり、それ以前には成立していた曲です。〈岩船〉は成立以来、演出上の変化が大きい曲であることが明らかになっています(小田幸子氏「作品研究・岩船」、樹下好美氏「〈岩船〉の構想」)。これまでの研究を踏まえ〈岩船〉の歴史を見てゆきましょう。

 前場の登場人物は前シテが童子・ツレが宝珠を持つ従者です。しかし、元頼本や『舞芸六輪』などから、本来は前シテが老人・前ツレが若い女でした。現在、後場のシテは竜神ですが、本来は後ジテが竜神、後ツレが天女でした。ただし、『禅鳳雑談』などの記録から、原〈岩船〉の後場の登場人物は天女だけで、その後に改作され、「禅鳳の時代に女体神能の後場に龍神や荒神を出してにぎやかにする方向の改変が行われたとすれば、この時代の新作の傾向にも合致する」という樹下氏の卓見があります。

 また、『禅鳳雑談』からは船の作リ物が出ていたこともわかります。前シテが神などの化身の場合、来序の囃子で中入し末社アイになるのが常ですが、〈岩船〉は里人による語リと異例です。こうした異例さは演出上の変化と合わせ、古来から〈岩船〉の上演が稀だったこと、観世流が早くから半能として演じてきたことに起因するようです。

 

鵜飼 うかい

〈鵜飼〉は榎並(えなみ)の左衛門五郎の原作を世阿弥が改作したものです。世阿弥の芸談集『申楽談儀』の該当記事を見てみましょう。「又、鵜飼、柏崎などは、榎並の左衛門五郎作也。さりながら、いづれも、悪き所をば除き、よきことを入れられければ、皆、世子(世阿弥)の作なるべし」とあります。世阿弥の『風姿花伝』第四神儀によれば榎並座は法勝寺、賀茂神社、住吉神社の神事に参勤していた摂津(現大阪市)の猿楽座でした。世阿弥以前には京都で活躍し猿楽の座の主流の一つだったようです。金春座とも縁があります。榎並座は室町時代中頃に金春座に吸収されたようで、江戸時代の春藤流(金春座付のワキ方で現在は廃絶)が、その末流かとする説があります。榎並の左衛門五郎は榎並座の役者で、『申楽談儀』には世阿弥が榎並と足利義満の前で立合をした記事があります。また、先に引用した『申楽談儀』の記事から、〈柏崎・鵜飼〉の原作者であり、それを世阿弥が改作したことが分かります。

〈鵜飼〉は前場に重点を置いた構成です。特に「鵜の段」は、闇夜を照らす松明(たいまつ)が象徴的に用いられ、物真似的な要素が強く、古作の面影を感じさせます。後場は『申楽談儀』によれば観阿弥が演じた〈融の大臣(おとど)の能〉(現行曲〈融〉とは別の散佚曲)を移したと記されています。また、同書によれば、小癋見(こべしみ)の面は世阿弥が〈鵜飼〉で初めて用いたものであると記されています。ところで、前シテが鵜使いの老人で、後ジテは閻魔王(えんまおう)と、前後で別人になっています。この点に関しては岩波日本古典文学大系『謡曲集・上』〈鵜飼〉に「シテは終わりまで退場せぬまま、別役の鬼が出たのかもしれない」という指摘があります。〈鵜飼〉はその成立までに複雑な歴史を持った曲のようです。

浮舟 うきふね

〈浮舟〉のあらすじから見てゆきましょう。「僧が宇治で女に会います。女は昔、浮舟が薫中将と匂宮に愛され、悩んだ末行方不明になった事を語ります。僧が弔うと浮舟の霊が現れ、憑き物の風情を見せ、横川の僧都に助けられたことを語り消える」という内容です。

〈浮舟〉の作者は世阿弥の芸談集『申楽談儀』に「これは素人よこを元久といふ人の作。節は世子付く」とあり、横越元久作詞・世阿弥作曲ということが分かります。横越元久は細川右京大夫満元に仕えた武家歌人です。満元は〈松風〉の「夜さむ何」の謡を直したことが『申楽談儀』から知られる人物で、そうした文化圏の中で元久が〈浮舟〉の作詞に携わったと考えられています。また、元久が詠んだ和歌の筆跡が現存していることも報告されています(伊藤正義氏『謡曲雑記』)。

〈浮舟〉は『源氏物語』宇治十帖の「浮舟・蜻蛉・手習」が出典です。『源氏物語』によれば、浮舟は薫と匂宮の二人から愛され、その悩みから入水を決意します。しかし、「手習」では浮舟が物の怪に憑かれた状態で現れますが、横川の僧都の祈祷により物の怪も退散し、浮舟は出家します。〈浮舟〉でもクセで二人の男に求愛されることが語られますが、匂宮は「兵部卿の宮」と表現されているのに対し、薫については「ひとかたはのどかにて」となっており、二人の対比がやや分かりにくい表現になっています。

また、二人の男に求愛され、その悩みから入水し、地獄に落ちた苦しみからの救いを求める〈求塚〉に対し、〈浮舟〉は『源氏物語』では結果的には救われている人です。浮舟は「物の怪」に憑かれますが、「誰が誰に憑いたのか」もわからず、そのためややドラマ性に欠けます。既に救われている浮舟がシテのため、登場理由がいま一つ明確でないこと、憑き物の能ではありながら「誰が誰に憑いたか」が不分明なことなどが、全体としてあいまいな印象を感じさせる理由かもしれません。

雨月 うげつ 

〈雨月〉のあらすじから見てゆきましょう。「西行が和歌の神である住吉明神に参詣する途中、老夫婦に宿を借りようとします。その家は老妻が月を、老夫が雨音を好むため、屋根の一部を葺いていませんでした。老人が詠んだ和歌の下の句に西行が上の句を付けると、西行は宿泊を許されます。空いた屋根から月を眺め秋風の音を聞いているうちに夜がふけてゆき、老夫婦は寝室へと姿を消します。すると、末社の神が現れ先ほどの老人が住吉明神であると告げます。やがて住吉明神が宮人姿の老人に憑いて現れます。住吉明神は西行に神託による和歌の奥儀を伝え、舞を舞う」という内容です。

 〈雨月〉の作者は金春禅竹です。禅竹は世阿弥の女婿であり師弟関係でもありました。そのため、世阿弥からの影響も大きく、和歌と舞による同趣向の世阿弥作〈蟻通〉の〈雨月〉への影響が既に指摘されています。また、西行の歌説話に基づく〈江口・西行桜〉も世阿弥作です。

 前場の主題歌とも言える「月はもれ雨はたまれととにかくにしづが軒端をふきぞわづろう」は『撰集抄』(中世には西行作とされていた説話集)に基づいています。

 前場では老夫婦の雨と月をめぐる風雅な争いが中心となりますが、後場とは和歌の繋りはありますが、雨と月の趣向は後場には活かされていません。また、前場の老人が住吉明神の化身ということは、末社アイの語リがなければ判然としません。これは禅竹作〈芭蕉〉の「芭蕉葉の夢・雪の中の芭蕉」がアイの説明なしでは判然としない趣向で(大系本『謡曲集・下』芭蕉「備考」)、同じアイの利用方法と言えます。

 また、世阿弥以降、「憑き物」の趣向は淘汰されて行ったため、後ジテである住吉明神が宮人(老人)に憑いて現れるというのは、とても珍しい形です。

〔update 2020.05.18 能楽研究家後藤和也〕

 

歌占 うたうら

「伊勢の国の神子(みこ)渡会何某(わたらいなにがし)はかつて頓死(とんし)しましたが、三日後に白髪となり蘇生しました。渡会が歌占をしていると男と少年が現われ、歌占によりその少年が我が子幸菊丸とわかり父子の再会を果たします。渡会は帰国の名残に男の前で地獄の曲舞(くせまい)を舞う」という内容です。

〈歌占〉の作者は〈角田川〉などの名曲を遺した観世元雅(もとまさ)ですが、三十代で早世しています。世阿弥の『夢跡一紙(むせきいっし)』には晩年に才能ある後継者を失くした世阿弥の悲嘆が述べられています。

 〈歌占〉のシテは歌で吉凶を占う神子の渡会の某です。男の神子も存在しますが普通は女性なので男神子は珍しいです。シテは直面で尉髪(じょうがみ)か白垂(しろたれ)を用います。白垂は長い白髪のイメージで異様な雰囲気があります。それはシテがかつて神の罰により頓死し三日後に蘇生したという異色の設定であり、その間の地獄の苦しみにより白髪となったことが理由です。歌占の場面は見どころでもありますが、この場面で別れていた子供と再会します。再会の場面がやや淡泊な印象を受けるのは、〈歌占〉では親子の再会よりも、歌占の様や地獄の曲舞を見せることにこの曲のテーマがあるためです。この曲舞は世阿弥の『五音』により山本某作詞・海老名南阿弥(えびなのなんあみ)の作曲です。次第・クリ・サシ・クセ(二段グセ)でクセの末尾が次第と同文という曲舞の完備形式です。もとは独立の曲舞でしたがいわば劇中劇のような形で挿入されています。なお、クセの典拠は〈春日龍神〉に名が出る解脱上人貞慶(げだつしょうにんじょうけい)の『貞慶消息』であり、『曽我物語』にも関連していることが指摘されています(松岡心平氏「〈地獄の曲舞〉典拠考」)。世阿弥伝書『却来華(きゃくらいか)』に関連する「却来」の使用など、元雅色の濃い異色の曲です。

〔update 2023.03.11 能楽研究家後藤和也〕

 

采女 うねめ

〈采女〉は「僧が春日大社で若い女と会い春日大社の縁起を聞きます。その後、女は僧を猿沢の池へ案内します。女は天皇に仕えていた采女が、天皇からの寵愛を失ったと思い込み猿沢の池へ身を投げたという昔話をし自分はその采女の霊であると告げ、僧に弔いを頼み水底に消えます。僧が弔うと采女の霊が現れ、天皇に仕えた往事を回想して舞を舞い池に消える」という内容です。〈采女〉は世阿弥の音曲伝書『五音』に詞章(節の付いた文句)の一部が引用されており、世阿弥作説が有力ですが異論もあります。   

〈采女〉にはいくつかの特色があります。『大和物語』を典拠としつつも、主題歌とも言える柿本人麻呂の歌「わきもこが寝くたれ髪をさる沢の池の玉藻とみるぞ悲しき」を、采女の入水後に天皇が詠んだ歌に転用しています。ちなみに、本来、采女とは天皇の給仕などを務めた女官を指します。春日大社の縁起・采女の入水という二つのシテの語リが前場にあるのも珍しいです。采女の入水という重いテーマと相まって、演能時間が長い曲の一つでもあります。そのため、クセなどが省略されることもあります。〈采女〉に特徴的な表現として世阿弥の造語で、世阿弥や世阿弥周辺の作者が好んで使う「遊楽」の使用、「声のあやをなす」が世阿弥伝書の『音曲口伝・花鏡』に引用されている『毛詩』大序の文句であることも指摘されています(表章氏「世阿弥および謡曲の「遊楽」の語をめぐって」)。また、世阿弥は伝書の中で「されば・しかれば・さるほどに」を多用する癖があることが指摘されています(表章氏『世阿弥・禅竹』)。〈采女〉では「されば」が四例・「しかれば」が三例あり世阿弥好みの表現と言えそうです。

 

江口 えぐち

〈江口〉は世阿弥の音曲論集である『五音』に「江口遊女、亡父曲」として〈クリ〉の一節「それ十二因縁…」が掲げられています。この記事から〈江口〉のクリ・サシ・クセを観阿弥が作詞・作曲、さらには〈江口〉を観阿弥作とする考え方もありました。しかし、『五音』の性格から観阿弥の関与が確実なのは、クリ・サシ・クセの作曲のみと考えるのが妥当と言えます。〈江口〉には応永31年9月20日付の世阿弥自筆能本が、奈良県の宝山寺に伝存しています(元は世阿弥から金春家に贈られたもの)。伊藤正義氏の集成本『謡曲集』解題にも考察がありますが、他の世阿弥自筆能本よりも詳細な節付が施されているにもかかわらず、クリ・サシ・クセには節付がされていません。その理由は、その部分が既に知られている観阿弥作曲の部分だからであり、逆にクリ・サシ・クセ以外は世阿弥が改作または作曲を改めたところ、と考えられています。

ところで、〈江口〉では中入リ前、前ジテが「江口の君の幽霊」と告げ消えます。通常なら、後場で江口の君の幽霊が現れ昔の様を見せ舞を舞い終曲となります。ところが、〈江口〉の終曲ではやや唐突に遊女が普賢菩薩と化します。こうした遊女と普賢菩薩というシテの二重性が典拠との関連によるものとの指摘が集成本解題にあります。『古事談』などに見られる遊女即普賢菩薩とする説話に基づく原〈江口〉に、世阿弥が改作にあたって西行と遊女の歌の贈答をめぐる西行説話(『新古今和歌集』など)を加え一体化したものが現行〈江口〉の形と言えます。また、世阿弥自筆能本には間狂言の本文もあり、能の作者が間狂言作成に関与したことを示す極めて希有な例ですが、そこではシテについて「昔の江口の長は普賢菩薩の顕現」と語られています。

 

演目解説「江口」

【あらすじ】僧が江口の里で女と会います。女は昔、西行が遊女に宿を断られた話をし、自分がその時の遊女の霊であると語り消えます。やがて舟に乗った遊女の霊が現れ、世の無常を語ると、舞を舞い、普賢菩薩に変じて消えてゆきます。

【見どころ】遊女達が屋形舟の作リ物に乗っている姿はとても華やかですが、曲全体としては仏教的な荘厳さと気品に満ちています。悟りについて語るクセ、序ノ舞、舟が白象に、遊女が普賢菩薩になり西の空へと消えるキリが見どころ。白象は普賢菩薩の乗り物。

【江口の作者】世阿弥の『五音』にクリを引き、「江口遊女・亡父曲」とあることから、観阿弥原作・世阿弥改作とされてきました。しかし、近年ではクリ・サシ・クセは観阿弥としても、「江口」を現在の形に完成させのは、世阿弥とする説が有力です。

【江口の出典】歌人・西行と遊女の和歌のやりとりは『新古今和歌集・山家集』など。遊女が普賢菩薩として現れた話は『古事談』などに基づいています。当時の能は現代で言えば、小説の映画化やドラマ化と似た働きがあったと言えるかもしれません。

【江口の史料】応永31年奥書の世阿弥自筆能本が奈良県の宝山寺に現存。598年も前の台本が残っているのは奇跡的なことです。この自筆本は世阿弥から娘婿の金春禅竹に贈られたものです。「江口」が観世から金春に伝わったことも分かる極めて貴重な史料です。

【江口の間狂言】世阿弥の自筆能本の「江口」にのみ間狂言のセリフが載っています。以前、講座でこの部分を再現したところ、前後あわせ約5分でした。当時の能は30分ほどとされています。5分で着替えが終わるくらいの装束だったのでしょう。現在は15分ほど。

【現在の江口】「江口」は美しく気品のある曲でありながら、悟りや遊女すなわち普賢菩薩など、仏教的な深みもある曲です。そのため「江口」は「真の女能」とも呼ばれ、シテの女性が優美な舞を舞う「鬘物(かずらもの)」の代表的な曲です。

〔2023.01.04 能楽研究家後藤和也〕

 えびら

〈箙(えびら)〉には多くの引用があります。〈世阿弥関係曲〉、《元雅関係曲》、『世阿弥伝書』からの主なものを挙げてみましょう。「飛花落葉(ひからくよう)」は〈西行桜(さいぎょうざくら)〉や《籠祇王(ろうぎおう)》等の他、『拾玉得花(しゅうぎょくとくか)』に「飛花落葉を常住(じょうじゅう)と…」、「一色一香(いっしきいっこう)の縁生(えんしょう)」は『遊楽習道風見(ゆうがくしゅうどうふうけん)』に「是いづれの縁生ぞや」、「人間有為(にんげんうい)」は《弱法師(よろぼうし)》にもあり、「一花(いっけ)ひらけては天下(てんが)の春よと」は《難波(なにわ)》の他、『二曲三体人形図(にきょくさんたいにんぎょうず)』に「一花(いっけ)開者(ひらくれば)天下春也(てんがはるなり)」、「魄(はく)は陽に帰り魂(こん)は陰に残る」は《朝長(ともなが)》の「魂(こん)は善所(ぜんしょ)に赴(おもむ)けども、魄(はく)は修羅道(しゅらどう)に残つて」と構成も酷似し、「執心却来(シウしんきゃくらい)」は『五音曲条々(ごおんきょくじょうじょう)』にある有名な「却来」の語を含み、〈当麻(たえま)〉《歌占(うたうら)》にもあります。〈箙〉の作者は不明ですが、世阿弥・元雅関係曲との関係、《朝長》との構成の類似、伝書からの引用、また、近年元雅による演能記録も発見され元雅作の可能性がある曲と言えそうです。

 おきな

【翁①】表章氏の『大和猿楽参究(やまとさるがくさんきゅう)』・「翁猿楽異説」によれば、大和猿楽四座(よざ)(結崎(ゆうざき)座・外山(とび)座・円満井(えんまんい)座・坂戸(さかど)座)は、興福寺薪猿楽・春日(かすが)若宮祭・多武峰(とうのみね)八講(はっこう)猿楽で〈翁〉を舞うためにその都度集まる座でした。この四座に観世・宝生・金春・金剛が付属していました。中でも円満井座は最も古い座でした。したがって、金春流が最も古い〈翁〉を継承しています。世阿弥の芸談集『申楽談儀(さるがくだんぎ)』には、今熊野(いまぐまの)猿楽(1357?)の際、初めて能を見に来た将軍足利義満(あしかがよしみつ)の前で観阿弥(かんあみ)が〈翁〉を舞った記事があります。

ところで、〈翁〉の冒頭「どう(オ)どう(オ)たらり」が観世流では「とうとうたらり」であり以前から諸説がありました。宝山寺(ほうざんじ)蔵『法華五部九巻書序(ほっけごぶきゅうかんしょじょ)』に〈翁〉の詞章の一部が引用されています。そこには「百百百(トウトウトウ) 多楽里(タラリ) 多楽(タラ)有楽(アリヤラ)」とあります。昔は濁点を付ける慣習がなく、この史料だけでは清濁の判断ができません。ただし「百」の慣用音として「ドウ」を認めている漢和辞典もあります。「百目木(ドウめき)」等の用例もあります。江戸時代の13世観世大夫(だゆう)重記(しげのり)節付(ふしつけ)の〈翁〉は「どうどう」であり、朱筆で濁点が付されています。観世も昔は「どうどう」だったことが分かります。これを改めたのが、15世観世大夫元章(もとあきら)でした。詞章など様々な改変を行った明和改正謡本(1765)の別冊である『九祝舞(くしゅうぶ)』にある〈翁〉が「とうとう」であり、しかも「スム」という注記があります。この「スム」は、以前は濁音だった所を清音に元章が変えた所に付されています。したがって、観世の改変は元章以降であり、金春の「どうどう」が本来の形なのです。語義には諸説ありますが不明です。ちなみに「たえずとう(オ)たり」は滝の音の擬音です。〈翁〉にはルーツを含めまだまだ不明な点が多く残っています。

【翁②】〈翁〉の冒頭部については既に表章氏(「翁猿楽異説」『能楽研究講義録』)による考察があります。それに基づきながら、上掛リ(観世・宝生)と下掛リ(金春・金剛・喜多)での冒頭部の違いについて考えてみましょう。観世「とうとうたらりたらりら…」。宝生「とうどうたらりたらりら…」。下掛リ「どうどうたらりたらりら…」観世は「とうとう」と清音、下掛リは「どうどう」と濁音、宝生がその中間となっています。こうした相違はどのようにして起こったかのでしょうか。まず、宝山寺蔵『法華五部九巻書序』(僧仙海が書写したものを金春禅竹の子に与えたもの)に〈翁〉の詞章が「百百百(トウトウトウ) 多楽里(タラリ) 多楽(タラ)有楽(アリヤラ)」と引用されています。「トウトウ」と振り仮名がありますが、当時は濁点を付ける習慣はないので、これだけでは判断できません。しかし、「百」には「ドウ」の読み方があり、福島県には「百目木(ドウメキ)」という地名があります。さらに、13世観世大夫重記の節付本〈翁〉には「どうどう」と朱で濁点が付されています。これらの史料から、〈翁〉の冒頭部が本来は「どうどうたらり」であったことが分かります。観世が清音に変えたのは、15世観世大夫元章です。明和改正謡本の別冊『九祝舞(くしゅうぶ)』の「とうとう」の部分に「スム」という注記があります。これは元々、濁音だった所を元章の判断で清音に変えた所に付されたものです。元章による変更が現在の観世と金春の違いを生んでいたのでした。総じて観世と金春で違いがある時は金春が古い形を残していることが多いです。 ところで、冒頭部の意味は不明ですが(「たえずとうたり」は滝の形容)、能ではしばしば「どうど(と)」が出て来ます。例えば「波の鼓どうど打ち」(猩々)等を見ると、囃子の音を模したものなのかもしれません。

伯母捨 おばすて   

世阿弥の芸談『申楽談儀(さるがくだんぎ)』に〈伯母捨〉の「月に見ゆるも恥(ハ)づかしや」における演出記事があります。したがって、世阿弥時代には存在していたことが確実であり、世阿弥作の可能性が極めて高い曲です。これまでの研究を踏まえ本曲の歴史を見てみましょう。現在、本曲は〈関寺小町(せきでらこまち)・檜垣(ひがき)〉とともに「三老女」として秘曲化しています。こうした秘曲化がいつ始まったかは不明ですが、室町末期成立の能楽論書『八帖本(はちじょうぼん)花伝書(かでんしょ)』に「右の三番は老女の舞」、また、江戸時代初期成立の能伝書『実鑑抄(じっかんしょう)』には「三老人(西行桜(さいぎょうざくら)・遊行柳(ゆぎょうやなぎ)・木賊(とくさ))、三婦人(楊貴妃(ようきひ)・定家(ていか)・大原御幸(おはらごこう))」と並び「三老女」の語が見えます。室町時代の演能記録は『申楽談儀』付載後人(こうじん)追記の永正(えいしょう)11年(1514)10月の「南都雨悦(よろこ)びの能」(観世)が唯一の記録です。江戸時代初期の寛文書上(かんぶんかきあげ)(幕府に提出した上演可能曲一覧)には、宝生流が雑能に加えているだけです。老女物で序ノ舞に太鼓が入るのは本曲だけですが、「妙庵本(みょうあんぼん)」(慶長初年書写の観世流謡本)に「此能(こののう)太鼓(たいこ)ノアル事、観世ニハ無之事(これなきこと)ト老父(細川幽斎)物語也(ものがたるなり)。下カヽリ(しもがかり)ニハアル事ト云々(うんぬん)」とあり、下掛(しもがか)リである金春流でも演じられていた事が伺われます。しかし、金春流での正式な記録はなく、昭和48年3月に復曲(謡本前付)、同年10月に桜間道雄師により上演されています。姨捨(おばすて)伝説は『古今(こきん)和歌集』『大和(やまと)物語』『今昔(こんじゃく)物語集』が著名ですが、『俊頼髄脳(としよりずいのう)』が最も近いです。この姨捨伝説は能では間狂言(あいきょうげん)で語られ、能ではその悲惨さには余り触れません。「わがこころなぐさめかねつさらしなやおばすて山に照る月を見て」を主題歌に、俗世から離れた老女の澄んだ心を名所の月に託し月下に懐旧の舞を舞うところに主題があると言えます。

か行 

杜若 かきつばた

【杜若①】〈杜若〉のあらすじは「旅僧が杜若が咲く三河国八橋に立ち寄ります。そこへ女が現れ、在原業平の歌を教え庵に旅僧を招きます。すると、そこへ業平の冠、后の唐衣を着た女が現れ、自分は杜若の精であると告げ、『伊勢物語』の在原業平の恋物語を語り舞を舞う」というものです。
〈杜若〉の作者は不明ですが、金春禅竹の可能性が高い曲です。最古の演能記録は寛正5年(1464)の糺河原勧進能で演じられた記録が残っています。〈杜若〉は『伊勢物語』七・八・九段を踏まえています。ただし、伊藤正義氏の一連の研究(新潮日本古典集成『謡曲集・上』杜若解題など)により、業平の東下りなど、『冷泉家流伊勢物語抄』を始めとする『伊勢物語』の古注釈書や、広く中世の歌学秘伝書を背景としている事が明らかになっています。
〈杜若〉にはいくつかの特色があります。その一つにクセが挙げられます。世阿弥は『申楽談儀』の中で「曲舞は、次第にて舞初めて、次第にて止むる也。二段有べし」と述べています。つまり、本格的なクセは次第とクセ末尾の文が同じで、いわゆる二段グセになるものです。〈歌占・百万・山姥〉がそれに該当しますが、それぞれ内容が独立したクセになっています。それに対し〈杜若〉のクセは同じく本格的な二段グセですが、内容は一曲の主題を盛り込んだものであり、クセの古態を新風に応用した意図的手法であることが指摘されています(集成『謡曲集・上』杜若解題)。西村聡氏の「方法としての異類」にもシテの特色に関する考察がありますが、先行する草木精魂物のシテが男(西行桜)なのに対し、シテを女性としたのは、〈芭蕉〉と並び作者の手柄と言えそうです。

【杜若②】〈杜若〉のあらすじを確認しておきましょう。「旅僧が杜若の咲く三河国八橋に立ち寄ります。そこへ女が現れ、在原業平の歌を教え、僧を庵に招きます。すると業平の冠、高子の后の唐衣を着た女が現れ、杜若の精と告げ、『伊勢物語』の恋物語を語り舞を舞う」という内容です。
〈杜若〉は近年の研究から金春禅竹作の可能性が高いとされる曲です。最古の演能記録は、寛正五年(1464)4月10日の糺河原勧進能で演じられています。〈杜若〉は『伊勢物語』七・八・九段に基づいています。ただし、単純に『伊勢物語』を典拠にしているわけではなく、『伊勢物語』の中世における古註釈の世界を背景に作られていることが、伊藤正義氏を中心に(新潮日本古典集成『謡曲集』、「謡曲杜若考」など)明らかにされて来ました。『伊勢物語』では具体的な人名は出て来ません。しかし、中世では「昔、ある男、ある女」とあれば、それがいつのことか、誰のことか、そして、どこでどのようなことが起きたのか、ということを明らかにしよう、というのが中世における『伊勢物語』解釈の基本でした。そこから、「ある男」として在原業平が想定されました。さらに、実は業平が陰陽(男女交合)の神であり、業平が女性と交わるのは、陰陽の道で女性を救い導く菩薩行であった、という中世の業平像が形作られて行きました。代表的な古註釈書である『冷泉家流伊勢物語抄』によれば、「かきつばたといふは、人の形見にいふ物なり。されば二条の后(高子の后)の御事を、御形見といはんために、かきつばたといふなり」とあるように、「杜若」を二条の后と解釈しています。その形見の花である杜若の精をシテとし、女人成仏と草木成仏が『伊勢物語』の中世の解釈を背景に描かれています。

【杜若③】〈杜若〉は金春禅竹の可能性が高い曲ですが、理解しにくい曲の一つでもあります。〈杜若〉は『伊勢物語』に拠りつつも『冷泉家流伊勢物語抄』などの中世古註釈の理解を背景に作られていることが、伊藤正義氏の一連の論考(「謡曲杜若考」、新潮日本古典集成『謡曲集・上』、『謡曲雑記』など)により明らかにされました。    
伊藤氏の考察をもとに、〈杜若〉についてシテの造形から見てゆきましょう。場面は三河の国八橋です。ここは『伊勢物語』で、「ある男」が自分をこの世に不要の者と思い、都を離れる東下りの際に立ち寄り、「唐ころも着つつ馴れにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」という歌を詠んだ所です。中世古註釈の世界では、「ある男」は在原業平であり、東下りは「たかき子の后(二条の后)」と業平との密事が露見し東山に蟄居させられたことであり、杜若は二条の后の形見の花でもありました。また、三河(三人)や八橋(八人)は業平と契りを交わした女性たちをも暗示していました。さらに、業平は陰陽(男女交合)の神であり、業平のそうした行いが女性達を救済すると中世古註釈では考えられていた事が明らかになっています。こうした考えを反映し、「女性」の姿で現れた〈杜若〉のシテは「杜若の精」であると同時に、「二条の后」や「在原業平」をもイメージさせます。こうしたイメージの重層性が〈杜若〉をやや理解しにくい曲にしてもいますが、この曲の魅力にもなっています。ところで、〈杜若〉のクセは[次第―一セイーイロエークリーサシークセ](クセ末尾は次第と同文で二段グセ)という、〈百万・山姥〉のような本格的クセ舞の形式ですが、伊藤氏も指摘するように、この形式を用いて物語の中心を描いたところに、〈杜若〉の野心的な新しさが見られます。

景清 かげきよ

〈景清〉のあらすじから見てみましょう。「盲目の琵琶法師となった平家の武将景清の元へ、娘の人丸が尋ねて来ます。景清は娘との再会を拒みますが、里人の手引きで再会を果たすと、八島合戦での武勇譚を語り、娘に別れを告げる」というものです。

〈景清〉の作者は不明です。最古の演能記録は文正元年(1466)、将軍義政飯尾肥前守邸御成能で観世又三郎により演じられています。ただし、室町時代の他の演能記録はほとんどありません。現存する〈景清〉を含む金春流最古の謡本は、天正頃(1573年が天正元年)の金春禅鳳本八郎本転写三番綴本です。金春安明師『金春の能』(新宿書房)所収「景清」によれば、「いわゆる「明治別曲二十番」に収められ、はじめて公式の所演曲となりました」とあります。出典は『平家物語』などに拠りつつも、架空の人物と思われる人丸を登場させるといった、作者の創作による部分がかなり含まれています。シテの「松門ひとり閉じて…」で始まる有名な名文の部分は、平家節を取り入れた作曲と言われています。本曲では「景清」という専用面が用いられます。髭がなく落ちぶれた哀れさを強調する観世や金剛に比べ、金春・宝生・喜多の面には髭があり無骨な侍大将を表していると言われています。この面のイメージの違いが演出や曲趣、景清像の違いを生んでいるとも言われています。

〈景清〉では娘と再会しながら最後は別れてしまう、という親子再会譚としては異例な結末を迎えます。この点は姉と弟が再会後に再び別れる〈蝉丸〉と影響関係があるかもしれません。なお、終曲に「笑いて左右へのきにけり」とありますが、能で「笑い」の語が出るのは他に〈鉢木〉と〈三笑〉だけで極めて稀な例です。

 

葛城 かづらき      

〈葛城〉は世阿弥作の可能性が高い曲です。〈葛城〉の問題点について伊藤正義氏の指摘(新潮社『謡曲集』、講談社学術文庫『謡曲入門』)を踏まえ見てみましょう。 舞台となる葛城山は、『古事記(こじき)』『記紀(きき)』などで語られる「高天原(たかまのはら)」(八百万(やおよろず)の神々が住むとされ天照大神(あまてらすおおみかみ)が支配する地)と、太陽神である天照大神が天(あま)の岩戸(いわと)に身を隠したことで、この世が真っ暗闇になり、八百万の神々が儀式や舞を舞うなどした所、天照大神が岩戸から出て来て暗闇が晴れたという「天の岩戸説話」の所在地が、中世には葛城山にあると解釈(『古今和歌集序聞書三流抄(こきんわかしゅうじょききがきさんりゅうしょう)』)されていました。この解釈を背景に葛城の神が「高天原の岩戸の舞」を舞うことになります。

ところで、この葛城の神は少し変わった女神(女体説は平安時代の『蜻蛉日記(かげろうにっき)』ニモ)です。「三熱(さんねつ)の苦しみ」を受け、人間である山伏(仏教)に救いを求め、「みぐるしき顔ばせの、神すがたは恥かしや」と自分の容姿にコンプレックス(劣等感)まで持っています。「三熱の苦しみ」とは本来、仏教で龍などが受ける苦しみの事でした。それが中世では「民衆のために神が受ける苦しみ」(『諸神本懐集(しょしんほんかいしゅう)』など)として使われるようになりました。また、「みぐるしき顔ばせの…」に伴う岩橋を架ける説話は、特に中世の歌論書である『俊頼髄脳(としよりずいのう)』の影響下にあり、同書によれば「役の行者(えんのぎょうじゃ)(山岳修行者)が一言主神(ひとことぬしのかみ)(葛城の神)に岩橋を架けるよう命じますが、自分の顔の醜さを恥じ夜にしか作業をしなかった事により橋を架けられず罰を受ける」という話を背景にしています。このように〈葛城〉は「中世」の解釈に基づいて作られた曲です。しかし、そうした解釈を踏まえた上で、葛城の神が「岩戸の舞」、つまり、大和舞を舞うところに主題がある曲です。

兼平 かねひら

〈兼平〉の作者は不明です。世阿弥の芸談集『申楽談儀』にある近江猿楽の犬王所演「柴舟の能」を〈兼平〉の古名とする説もありましたが、現在では作品の特徴などから世阿弥以後の作と考えられています。最も古い演能記録は金剛による所演(『中臣祐金記』)で天文5年(1536)の記録があります。〈兼平〉にはいくつかの特色があります。木曽殿のゆかりの僧が、木曽義仲を弔うため粟津の原へと向かいます。ところが、後場で実際に現れるのは、義仲に仕えた今井の四郎兼平です。義仲の奮戦と最期が兼平を通して描かれるところに、大きな特色があります。また、前場に現れた船頭の翁は、後場で「その舟人こそ兼平が現(うつつ)にまみえし姿なれ」とその正体が語られます。通常であれば、中入リの前にシテの正体が暗示されます。ところが、〈兼平〉ではシテが正体を暗示もせずに中入リしてしまう、という極めて異例な構成になっています。前場は矢橋(やばせ)の浦から粟津への舟上の道行文ですが、船頭の翁は地謡の「粟津に早く着きにけり」でそのまま中入リする、という大胆な構成になっています。また、比叡の山や縁起を語る前場と、後場の合戦譚との直接的な関連性がほとんどない、というのも〈兼平〉の構成上の特色です。後場では主君義仲と兼平の最期が描かれます。『平家物語』巻九の「木曾最期」に基づいています。ほぼ『平家物語』の本文をそのまま引用している、というのも〈兼平〉の特色です。〈巴〉でも義仲の最期が描かれますが、こちらも巴御前を通して義仲の最期が描かれている点が、〈兼平〉と共通しています。兼平の自害の描写もかなり写実的で壮絶に描かれています。世阿弥の風雅な修羅能とは一線を画す異色の曲となっています。

加茂 かも 

〈加茂〉の作者は金春禅竹(ぜんちく)です。最古の演能記録は永正11(1514)年10月28日の南都雨悦(よろこび)の能(『申楽談儀(さるがくだんぎ)』付載記事。ちなみにこの催しの実態は雨乞(あまご)い能で、観世・宝生・金春・金剛が参加し二回目に予定されていた日に雨が実際に降りました。加茂の他、角田川(すみだがわ)・藍染川(あいぞめがわ)・藤戸(ふじと)・杜若(かきつばた)など水に縁のある曲が演じられています)で宝生流が演じています。『能本作者註文(ちゅうもん)』には「禅竹作 但(ただし)奥は宝生太夫(だゆう)作」とあり、この記事が事実であれば終曲部が宝生太夫により改訂されている可能性もあります。

曲名は古くは〈矢立賀茂(やたてかも)・矢卓鴨(やたてかも)〉などとも表記されていました。 現在、前シテの里女(御祖(みおや)の神(しん)の化身と思われる女)に、後場で対応する役が後ツレの御祖の神(天女)であり、後ジテが別雷神(わけいかづちのかみ)となっています。つまり、前シテは後ジテの化身ではなく、前シテに後ツレが対応する形になっています。集成本『謡曲集・下』矢卓鴨解題によれば、ツレ役の天女が登場し天女ノ舞を舞う脇能(難波・竹生島など)は類型化をたどった経過があり、〈加茂〉の場合も本来の配役が現在と違っていた可能性が指摘されています。具体的には、前シテが後場もシテ格の御祖神として再登場し、別雷神は別役で登場するという形が推測されています。

〈加茂〉は加茂明神縁起などに基づいていますが、単に縁起を紹介する能ではありません。前場のシテとツレによる水汲む女の川尽くしのロンギは、解題にも指摘がありますが、川の水を汲むわざに神の心を汲むわざをも重ね合わせ、表現の上でも世阿弥の作品をうまく利用しながら作られており、前場の中心となっています。室町末期頃の『舞芸六輪(ぶげいろくりん)』には鬼能の部に記事が見え、脇能でありながら切能(きりのう)的でもある個性的な曲です。

邯鄲 かんたん

【邯鄲①】〈邯鄲〉の作者は不明ですが、金春禅竹(ぜんちく)の『歌舞髄脳記(かぶずいのうき)』(1456)に記述があること、曲の特性から世阿弥周辺(観世元雅(もとまさ)や禅竹)の作と考えられています。出典は中国の『枕中記(ちんちゅうき)』、『重刊湖海新聞夷堅(いけん)続志』、日本の『太平記』、『和漢朗詠集和談抄』等ですが、先行する中国の邯鄲の話を作者独自の構想下に整えている所に特色があります(集成本『謡曲集・上』邯鄲解題)。それは「夢の世ぞと悟りえて」という、出典を離れた日本的な仏教的無常感(この世のあらゆるものは永遠ではなく、移ろい行く、はかないもの)を主題とする所にも表われています。

 〈邯鄲〉にはいくつかの特色があります。本来は〈邯鄲〉専用の面だった邯鄲男の使用、狂言口開ケ〔アイにより曲が始まる。現行曲では14曲で、その内の半分〈邯鄲・咸陽宮(かんにょうきゅう)皇帝(こうてい)三笑(さんしょう)・西王母(せいおうぼ)・鶴亀(つるかめ)・東方朔(とうぼうさく)〉が唐事(からごと)(中国物)です。太字(下線)の曲は金春流にナシ〕の後でシテがいきなり登場すること、一畳台(いちじょうだい)の巧みな利用、有効な「夢」の活用、中でも枕をして寝る型は〈邯鄲〉のみです。また、子方による舞、一畳台を使った舞と特殊な型、一畳台への飛び込み、覚醒後に後日譚(たん)的に悟りを得た事を述べる静かな謡の終曲など、盛りだくさんの野心的な曲です。

 〈邯鄲〉には子方の「わが宿の」の謡のところでシテが法被(はっぴ)を脱ぐ珍しい型があります。これは金春大夫(だゆう)(大夫は現在の宗家にあたる)の金春安照(やすてる)(1549―1621。女婿(じょせい)が金剛大夫の金剛三郎。金剛三郎は後に金剛流から独立し喜多流を創始した北(きた)七大夫(しちだゆう))の金春安照装束付(しょうぞくづけ)に「…夢の舞の内に、法被の右の肩をぬぐ」(能楽資料集成『金春安照型付集』わんや書店)という記述があります。現在との違いもありますが、法被を脱ぐという型は今に継承されていることが分かります。

【邯鄲②】〈邯鄲〉のあらすじを見ておきましょう。廬生が羊飛山へ向う途中、邯鄲の里で雨宿りをし、宿の女主人から枕を借りて眠ります。廬生は夢の中で王位につく勅命を受け宮殿で五十年の栄華を極めますが、夢が覚めると粟飯が炊ける僅かな時間に過ぎず、人生の無常を悟り帰郷する、という内容です。作者は不明ですが、近年の研究から世阿弥周辺(金春禅竹など)の曲である可能性が指摘されています。禅竹の『歌舞髄脳記』(1456)に曲名が見えることから、これ以前には成立していた曲です。なお最古の演能記録は糺河原勧進猿楽(1464)での音阿弥(第三代観世大夫で世阿弥の弟・四郎の子。一時、世阿弥の養子になっていたと推測されています)による所演です。〈邯鄲〉は中国の小説『枕中記』や『太平記』巻二十五の「邯鄲の夢の枕」などを出典としています。廬生の人生への迷い、五十年の栄華、覚醒後の悟り、という場面を現実と夢の世界を用いた巧みな構成で描いています。通常、ワキ(ワキツレ)は現実世界の人物ですが、〈邯鄲〉では夢の中、すなわち非現実世界の人物(勅使など)として扱われており、夢の世界を現実と感じさせる効果があります。なお、廬生の夢が覚める前にワキ(ワキツレ)は退場している、というのも特徴です。〈邯鄲〉には他にも特徴があります。アイ(狂言方)が鬘を用いること、シテが枕をして能装束のまま寝る所作などは、〈邯鄲〉だけに見られる特徴です。なお、面の邯鄲男は本来は〈邯鄲〉の専用面でしたが、脇能の男の神(高砂など)にも用いられるようになりました。ところで、曲中の「面白やふしぎやな」という何気ない表現が実は世阿弥の芸論用語であるという興味深い指摘が天野文雄氏(『能という演劇を歩く』)にあります。

 きぬた

〈砧〉の作者は世阿弥です。現在〈砧〉は能を代表する名曲ですが、この〈砧〉にも長い廃絶期間がありました。表章氏の「砧の能の廃絶と中興」(『観世』昭和54年10月)を参考に、〈砧〉の歴史を振り返ってみましょう(砧は衣板(きぬいた)が音変化した木の台で、木槌で布を打ち柔らかくしたりツヤを出すのに使われた道具です)。音阿弥(おんあみ)(世阿弥の弟四郎の子で一時期世阿弥の養子とも。観阿弥の孫、第三代観世大夫(だゆう))が寛正(かんしょう)5(1464)年の糺河原(ただすがわら)勧進(かんじん)猿楽(さるがく)で〈砧〉を演じた記録がありますが、音阿弥以降、江戸時代まで全く演能記録がありません。江戸時代の元禄5年(1692)年に宝生流が正式な演目とし、享保(きょうほう)9(1724)年には観世流が「習之能(ならいののう)」に加えています。この時代は能好きで有名な五代将軍綱吉(つなよし)と家宣(いえのぶ)の時代でした。特に綱吉は宝生流びいきで、稀曲を観ることを好んだため、この期間に多くの廃絶曲が復曲されました。〈砧〉も綱吉の好みに合わせ宝生流を中心に復曲したと考えられています。喜多流での復曲は天保(てんぽう)9(1838)年頃、金剛流は幕末、金春流では昭和38(1963)年12月に金春会別会で本田秀男師(本田光洋師の父)により復曲されました。世阿弥の『申楽談儀』(岩波書店『世阿弥・禅竹』参照)に「静成(しづかなり)し夜(よ)、砧の能を聞きしに、かやう(かヨオ)の能の味は(ワ)(イ)は、末の世に知る人有(ある)まじければ、書き置くも物くさき由(よし)、物語(ものがたり)せられし也(なり)」(静かな夜、〈砧〉を聞いた所、「このような能の味わいは、末世(まっせ)である今の世に、本当に理解できる人はいないだろうから、〈砧〉について書き置くのも億劫だ」と語られた)とあります。一般に「人」は観客と解されていますが、世阿弥の曲を他の演者も演じているらしいことから、「演者」と解する可能性もあるかもしれません。

金札 きんさつ

〈金札〉の作者は観阿弥(かんあみ)です。観阿弥は初代の観世大夫(だゆう)で世阿弥の父です。山田猿楽の美濃大夫の養子の三男で、長男は宝生大夫でした(つまり観世と宝生は兄弟の間柄でした)。永和元年(1375)の今熊野(いまぐまの)猿楽(さるがく)では、観阿弥・世阿弥父子の演能を将軍足利義満が見物し、以後、観世父子に絶大な後援を与えました。また、観阿弥が初めて〈翁(おきな)〉を舞った催しでもありました。

観阿弥の最大の業績は、南北朝期に流行した曲舞(くせまい)を能に摂り入れ、能の音曲(おんぎょく)面に大改革をもたらしたことです。観阿弥は能役者としても優れていましたが、同時に能の作者でもありました。観阿弥が関係する曲は、〈金札(きんさつ)・淡路(あわじ)・布留(ふる)(番外曲)・江口(えぐち)・松風(まつかぜ)・吉野静(よしのしずか)・卒塔婆小町(そとばこまち)・求塚(もとめづか)・通小町(かよいこまち)・横山(よこやま)(番外曲)です。多くの観阿弥曲が世阿弥時代に改作されていますが、それでも、身近な素材・劇的な展開・会話の妙・物まね(写実的)的な面白さと歌舞(かぶ)の融合など、能の創世記の生き生きとした作風が感じられます。特に〈通小町・自然居士・卒塔婆小町〉は観阿弥原作として、代表曲と言えます。

〈金札〉は典拠不明とされて来ましたが、熊沢れい子氏「古今集と謡曲―中世古今注との関連においてー」(『国語国文』昭和45年10月)で、『玉伝深秘巻』所収の「金札伝」が〈金札〉の典拠である可能性の高いことを指摘しています。〈金札〉は脇能(神能)の中でも最も古い形とされています(大系本『謡曲集・上』備考)。儀礼的ではないシテの登場、独立性が高い前場と後場(他流では半能ニモ)、クセがないこと、舞働(まいばたらき)、弓をめぐる写実的な型など、脇能の類型に捉われない異色の作品です。なお、最古の演能記録は永正13年春日社法楽能での金春座による演能です(金春禅鳳(ぜんぽう)『禅鳳(ぜんぽう)雑談(ぞうたん)』)。

国栖 くず

【国栖①】〈国栖〉の文献上の初見は金春禅鳳(ぜんぽう)の『反古裏(ほごうら)の書(しょ)』、永正(えいしょう)期(1504~)の装束付(しょうぞくづけ)である『舞芸(ぶげい)六輪(ろくりん)』に曲名が見え、曲の特色と合わせ世阿弥時代以降の成立と考えられます。〈国栖〉の前場は天武(てんむ)天皇(本曲では即位前の大海人(おうあまの)皇子(おうじ)時代を描いてます)が、大友皇子に襲撃され吉野に逃れるという不遇を描いています。皇族の不遇を描く曲は他に〈蝉丸(せみまる)〉だけで大変珍しい設定です。天皇が不遇に陥るだけに劇性も高まります。国栖は奈良県吉野の地名で、老人が国栖魚(くずうお)、すなわち、鮎を天皇に献上しますが、食べ掛けの鮎を川に放つと、鮎が生き返るという奇跡が起こります。「魚を放つ」という発想には世阿弥(ぜあみ)の〈放生川(ほうじょうがわ)〉の影響があるかもしれません。その後、アイ(追手(おって))が天皇を追って来て、舟に天皇を隠した老人たちと問答になります。このアイの用法などが〈吉野静(よしのしずか)〉に類似することが指摘されています(『能・狂言必携』学燈社)。老人夫婦は「…五節(ごせン)の始(はじ)めこれなれや」という地謡で中入(なかいり)し、素上をほのめかすことなく消えるのも珍しい点です。後場では蔵王(ざおう)権現(ごんげん)と天女が現れます。世阿弥の脇能では後場にツレを伴わない形(〈高砂(たかさご)〉等)が完成型(新潮日本古典集成『謡曲集』中〈高砂〉解題)とされていますが、脇能の形式を借りた〈国栖〉の後場は、ツレの天女を伴う点からも、世阿弥とは異なる特色が見られる所です。後ジテは吉野の蔵王堂の本尊である蔵王権現です。蔵王権現というとすぐに金春禅鳳の〈嵐山(あらしやま)〉を思い出します(〈嵐山〉との影響関係について、石井倫子氏『風流能(ふりゅうのう)の時代』東京大学出版会に考察があります)。実は現行曲で蔵王権現が現れる曲は意外にも〈国栖〉と〈嵐山〉だけです。劇性に富み、脇能の要素もあり、異例の設定もある、異色の曲と言えます。

【国栖②】〈国栖〉のあらすじから。浄見原の天皇(後の天武天皇)が大友皇子に追われ吉野に逃れて来ます。吉野の老人夫婦が国栖(鮎)を天皇に供し、老人がお下がりの鮎を川に放すと鮎は生き返ります。やがて追手が来ると老人が気迫で追い返します。老人夫婦が退出すると天女と蔵王権現が現れ天皇を慰め御代を祝福します。能には前半の主役が中入リせずに、そのまま舞台に残り、そこへ後半の主役が登場するという護法型と呼ばれる古い形式があります。かつて護法型であったとされる曲に〈昭君・養老・松山鏡・谷行・壇風・国栖〉があります(山本和加子氏「世阿弥の鬼能と鵜飼」)。確かに「川に放した鮎が生き返る」という奇跡も老人の能力で起きたわけではありません。追手を追い払う際の気迫のこもった振舞からも、老人は現実の生身の人として描かれており蔵王権現の化身とは思えません。また、中入リに際しても、後場の天女が現れるまで囃子のみで、通常ならばある間狂言がないという異例な形式であるのも、かつて〈国栖〉が護法型であった可能性が高いことを想像させます。

ところで、〈国栖〉では天皇を子方が演じます。特に追手からかくまう際には舟の作リ物を子方にかぶせて隠す、という能では極めて異例な具体的な見せ場があります。すでに天野文雄氏(『能という演劇を歩く』大阪大学出版会)により、〈海人・安宅・船弁慶〉の子方を、かつては大人が演じていた事が明らかにされています。この事実から類推すれば、〈国栖〉の子方もかつては大人が演じていた可能性もあり現在の演出は後代の工夫なのかもしれません。現在、他流では舟を斜めにし後見が支えているという演出もあります。この演出は子方がかつては大人が演じていた頃の名残を示しているのかもしれません。

熊坂 くまさか

〈熊坂〉の作者は『自家伝抄』に宮増、『二百拾番謡目録』に金春禅竹、『能本作者註文』に「作者不分明 但シ大略金春能か」と諸説があり作者は不明です。〈熊坂〉を現在能に仕立てた類曲に〈烏帽子折(金春流にナシ)〉があります。この曲は古くは〈現在熊坂〉、〈熊坂〉は〈幽霊熊坂〉とも呼ばれていました。最古の演能記録は、永正11年(1514)の南都四座立合祈雨祈願能の記録で、『義経記・二』や『平治物語二・下』の牛若の盗賊退治譚を素材としています。

〈熊坂〉のあらすじは「旅僧が美濃の赤坂で別の僧に弔いを頼まれ庵へ行きます。そこには僧には似つかわしくない薙刀などの武具があり、盗賊への用心のためなどと語るうちに、その姿も庵も消えてしまいます。その僧は盗賊の熊坂長範の霊の仮の姿でした。旅僧が弔うと熊坂の霊が現れ、吉次一行に強盗を試みましたが、逆に牛若に斬り立てられた無念の最期を語る」という内容です。

シテが盗賊というのは非世阿弥風です。ワキが旅僧で前シテも僧というのも極めて異例で、設定にやや無理があります。

前シテが正体を名乗らない例は〈兼平〉と同じ構成です。後場で各地の盗賊を列挙するのは、〈鞍馬天狗〉で各地の天狗を列挙するのに類似しています。また、牛若に斬られるという後場で、牛若を登場させないで、熊坂一人で戦闘場面を描くというのも特色です。

〈熊坂〉に禅語・俗語・諺が多く使われていることは以前から指摘されていますが、その中で〈熊坂〉にしか出てこない言葉(「支証・眠蔵」など)が多いのも特色です。また、「火ともしの上手・わけ切り・よおやく神」など不明な語も散見されます。なお、「夜盗」は『日葡辞書』には「ヨタウ・夜の盗賊」と掲載されています。

鞍馬天狗 くらまてんぐ

〈鞍馬天狗〉のあらすじから見てゆきましょう。「鞍馬山の僧が多勢の稚児を連れ花見をしている席に、ぶしつけな山伏が現れます。僧達はその場を去りますが、一人の稚児がその場に残ります。その稚児が牛若丸(後の義経)で山伏と師弟の契約をします。実は山伏は大天狗で兵法の秘伝を牛若丸に授け守護を約束する」という内容です。

 室町時代の作者付史料『能本作者註文(ちゅうもん)』によれば作者は宮増(みやます)です。〈調伏曾我(ちょうぶくそが)・元服曾我(げんぷくそが)〉をはじめ宮増関係の曲とされる曲は少なくありません。ただし、宮増については不明なことが多く、能作の実態も明らかではありません。『四座(よざ)役者目録』などの史料から、シテだけでなくワキや小鼓方でも活躍した宮増という能役者が実在したことは確かで、能作も行っていたようです。宮増関係の曲は概して曾我物・義経物・劇的な展開の曲が目立ちます。最古の演能記録は『親元(ちかもと)日記』寛正(かんしょう)6年(1465)3月9日将軍院参の観世能の所演です。

 〈鞍馬天狗〉では義経の少年期である牛若丸時代が描かれています。〈橋弁慶・熊坂〉なども牛若丸時代を描いていますが、〈鞍馬天狗〉では天狗が登場し、その天狗から兵法を授かるというのが他曲との違いです。能に登場する天狗は仏教を妨げる場合が多く、良いイメージの天狗が能で描かれるのが異例なことは、金春安明師が『金春の能〈上〉』で指摘されている通りです。前場は大勢の子方が登場する花見の場面が印象的です。その華やかな場面が山伏の登場で一変する展開も鮮やかです。牛若丸を気遣う山伏が実は大天狗で、後場では天狗の姿で牛若丸に兵法を授けます。牛若丸が平家を打倒する存在になるという、未来の事までがそこで語られるのが特色です。

〔update 2022.10.04 能楽研究家後藤和也〕

 

呉服 くれは 

〈呉服〉のあらすじから見てゆきましょう。「住吉神社参詣を終えた延臣が呉服の里に着くと、機(はた)を織る音が聞こえてきます。そこへ呉織(くれはとり)・漢織(あやはとり)と名乗る中国の若い女性が現れます。二人は応神天皇の御代に呉国から来て綾の衣を織り帝に献上したことを語り、機(はた)を織るさまを見せ消えます。やがて呉織(くれはとり)の神霊が現れ舞を舞い御代を祝福する」という内容です。

 〈呉服〉の作者は未詳ながら近年の研究(集成本『謡曲集』〈呉服〉解題など)から、世阿弥作の可能性が高いとされる曲です。〈呉服〉は現在でこそ上演が稀な曲ですが、江戸時代を通し上演頻度が極めて高い人気曲でした。

舞台上では機織台(はたおりだい)の美しい作リ物が目を引きます。この作リ物は大掛かりなため、例えば宝生流では「作物出(つくりものだし)」の小書(こがき)(特殊演出)がついた時のみ作リ物を出すなど、各流儀で特色があります。ちなみに「くれはとり」は「くれはたおり」が元来で中国から帰化した機織工(はたおりこう)の意です。   

これまでの研究(竹本幹夫氏「天女舞の研究」・集成本解題など)から、〈呉服〉が演出面で変化のあったことが指摘されています。元来は女体神能として天女の舞を舞う能(金春禅鳳の『禅鳳雑談(ぜんぽうぞうたん)』にも〈呉服〉が天女舞の能であるとの記事アリ)でした。古くは後ツレも登場し、天女の舞が後ジテと後ツレの相舞で舞われた可能性が指摘されています。現行の中ノ舞への改変の過程で後ツレが省略され、それに伴い後場の詞章も改訂され現行形態へとなったようです。

〈呉服〉は『後撰集』の「くれはとりあやに恋しくありしかば二村山も越えずなりにき」をめぐる歌学の諸説の影響が指摘されており、それが〈呉服〉を脇能の中でも特に情趣豊かな曲にしていると言えます。 

黒塚 くろづか

〈黒塚〉のあらすじは「山伏が安達原(あだちがはら)で宿を借りると主の女が糸を繰りつつ身の上を歎き、寝屋を見ないようにと告げ薪を取りに行きます。寝屋を覗いてしまった能力がそこで見たものは死体の山でした。そこに鬼女となった女が現れますが、祈り伏せられ退散する」というものです。

〈黒塚〉の作者は不明です。ただし作者付(づけ)史料である『能本作者註文(のうほんさくしゃちゅうもん)』には「近江能(おうみのう)」とあります。最古の演能記録は寛正(かんしょう)6年(1465)将軍院参の際の観世による所演です。なお、観世流のみが曲名を〈安達原(あだちがはら)〉と称しています。

出典は明らかではありませんが、『拾遺(しゅうい)和歌集』巻九・雑下にある兼盛(かねもり)の「陸奥(みちのく)の安達の原の黒塚に鬼こもれりといふはまことか」を核とし、当時、存在が想像される「黒塚に住む鬼女伝説」を背景としていると考えられています。

前場の中心であるロンギは、糸尽くしのロンギで「わざ物」の類に属します。このロンギは『源氏物語』を利用しながら巧みな作詞がなされています。間(あい)狂言は通常の間とは違い、いわゆる「見るなの座敷」を見てしまう様子を、笑いを誘うような仕草で演じる独特な間(あい)になっています。シテの性格ですが「見るなの座敷」を見られてしまう、つまり、人を信じようとするが裏切られてしまう、その悲しみが怒りへと転化し人が鬼になる、とも解釈出来なくはありません。しかし、集成本『謡曲集・安達原解題』にも考察がありますが、中入前に女が見せる凄味、後場でワキの仏力の前に退散する結末は成仏とは無縁の構成です。〈黒塚〉のシテは般若を着けている事から、人間の本性は備えつつも、やはり鬼として扱われており、やや、シテの性格に曖昧さは残るものの、〈黒塚〉では鬼が人の姿で現れていた、と言えそうです。

 般若は一搬にもよく知られた能面の一つですが、意外にも般若を使用する曲は、金春流では〈葵上・道成寺・黒塚・紅葉狩〉など余り多くありません。数が少ないのですが、シリアスな筋立てで人が鬼となる〈葵上・道成寺〉系と、エンターテイメント性が高く最初は鬼が人として現れる〈黒塚・紅葉狩〉系に分けられそうです。

源氏供養 げんじくよう

〈源氏供養〉は「安居院の法印が石山寺に向う途中、女と会い光源氏の供養を頼まれます。女は紫式部の霊で、法印が供養すると、紫式部の霊が現れ願文を法印に渡し、共に回向し舞を舞い」ます。

〈源氏供養〉のクセは『源氏供養草子』が典拠(集成本『謡曲集』解題)ですが、『源氏物語』の巻名を巧みに読み込んだ名文です。以下にクセと『源氏物語』の巻名を太字で示しておきます。

地謡『そもそも桐壷の 夕べの煙すみやかに 法性の空にいたり 帚木の夜のことの葉は ついに覚樹の花散りぬ 空蝉の むなしきこの世をいといては 夕顔の 露の命を観じ 若紫の雲の迎え  つむ花の台に座せば 紅葉の賀の秋の 落葉もよしやただ たまたま 仏意にあいながら さかき葉の さして往生を願うべし シテ『花散る里に住むとても 地謡『愛別離苦の理り まぬかれがたき道とかや ただすべからくは 生死流浪の 須磨の浦をいでて 四智円明の 明石の浦にみをつくし いつまでもありなん ただ蓬生の宿ながら 菩提の道を願うべし 松風の吹くとても 業障のうす雲は 晴るる事さらになし 秋の風消えずして 紫磨忍辱の藤袴 上品蓮台に 心をかけて誠ある 七宝荘厳の 真木柱のもとにゆかん 梅が枝の 匂いにうつるわが心 藤の裏葉におく露の その玉鬘かけしばし 朝顔の光たのまれず シテ『朝には栴檀の 地謡『かげにやどり木名も高き つかさくらいを あずま屋の内にこめて 楽しみ栄えを 浮舟にたとうべしとかや これも蜻蛉の身なるべし 夢の うき橋をうち渡り 身の来迎を願うべし 南無や西方弥陀如来 狂言綺語をふりすてて 紫式部が後の世を 助け給えと もろともに 鐘うちならして 回向もすでに終りぬ

 『源氏供養草子』を出典としつつも見事に能の詞章として昇華された屈指の名文です。

〔update 2020.08.23〕

 

〈源氏供養〉の作者は不明です。ただし、演能記録から寛正(かんしょう)5(1464)年までには成立していた事が確認できます。金春禅鳳(ぜんぽう)の『禅鳳雑談(ぜんぽうぞうたん)』には〈紫式部(むらさきしきぶ)〉として記されています。いわゆる源氏物は現行曲では〈半蔀(はしとみ)・葵上(あおいのうえ)・浮舟(うきふね)・野宮(ののみや)・玉葛(たまかずら)・源氏供養(げんじくよう)・落葉(おちば)・夕顔(ゆうがお)・須磨源氏(すまげんじ)・住吉詣(すみよしもうで)(上記4曲は金春流にナシ)〉です。こうした源氏物の中にあって〈源氏供養〉は、いささか異色の存在です。〈源氏供養〉以外の9曲は『源氏物語』に基づき、シテなども『源氏物語』に登場する人物です。それに対し、〈源氏供養〉は『源氏供養草紙(そうし)』に基づくことが指摘(集成本『謡曲集』解題)されており、また、シテが『源氏物語』の作者紫式部である唯一の曲です。ちなみに、紫式部に関連する曲は、番外曲(廃絶曲)に〈紫式部(『禅鳳雑談』にある曲とは別曲〉と〈紫野(むらさきの)〉があります。いずれにせよ、異色の源氏物です。〈源氏供養〉の特色はクセ舞にあります。前場で供養を求めた紫式部の霊が、クセでは紫式部自身により供養の舞を舞うという不自然な構造になっていることが、小西甚一(じんいち)氏(『観世』作品研究・昭和47年4月)により指摘されています。それに対し、伊藤正義氏(集成本『謡曲集』解題)は、クセの内容が現世の無常、浄土を求めることにあり、単にクセの出典である『源氏物語表白(ひょうはく)』を置いたのではなく、無常の世を見せ浄土を願うクセに変身させている、と指摘されています。 クセをどう解釈するかによって、曲の印象も変わって来ますが、クセは『源氏物語』の巻名を巧みに織り込んだ名文です。クセからキリまで二十八の巻名が用いられています。かつて伊藤正義氏の授業で学生から「法華経二十八品(章)に擬したのではないか」(『謡曲雑記』和泉書院)という魅力的な指摘があったそうです。

源太夫 げんだゆう

 〈源太夫〉は上演機会が少ない曲です。あらすじから見てゆきましょう。

「勅使が勅命により熱田明神へ参詣します。そこで勅使が神前を清める老夫婦に会います。老夫婦は勅使に熱田明神の謂れと、自分たちが素戔嗚尊(すさのおのみこと)により八岐大蛇(やまたのおろち)から命を救われた稲田姫の父母である脚摩乳(あしなずち)と手摩乳(てなずち)と語ります。そして、父の脚摩乳は源太夫(げんだゆう)の神(しん)と名を改めて東海道の旅人を守る誓いを告げ消えます。その夜、源太夫の神と橘姫が現れます。源太夫の神は太鼓を打ち、二人が人々を守護することを告げ舞を舞う」という内容です。

 脚摩乳と手摩乳は夫婦の神で稲田姫という娘がいましたが、八岐大蛇に姫を呑まれてしまうと嘆いていました。そこへ、素戔嗚尊が現れ八岐大蛇を退治し稲田姫を救いました。素戔嗚尊は八岐大蛇が呑み込んでいた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を尾から取り出し、それを天照大神に献上します。二人は夫婦となり大国主神(おおくにぬしのかみ)を授かります。

 以上の話は記紀神話に語られているもので、『日本書記』や、『平家物語』にも語られています。さらに世阿弥の音曲伝書『五音』に田楽(でんがく)の亀阿弥(きあみ)(喜阿弥)作曲「熱田(あつた)」が掲出されていますが、この内容が〈源太夫〉のサシ・クセとほぼ一致することが注目されます。

表章氏「世阿弥および謡曲の遊楽の語をめぐって」では、この「熱田」をもとに〈源太夫〉が構想されたこと、世阿弥伝書の用語(遊楽・治世之音、安以楽・宮商上下、声成文)の引用、特にその用語が金春禅竹(ぜんちく)の伝書にも使われていること、古くから金春流だけが演じてきていること、作者付史料『能本作者註文(ちゅうもん)』に金春禅竹作とあることなどから、〈源太夫〉金春禅竹説が指摘されています。また、楽(がく)の相舞が後場の見どころですが、これまでの研究から楽の成立は世阿弥時代以降とされていることも注目されます。

〈源太夫〉の人物造形はやや曖昧です。素戔嗚尊は日本武尊(やまとダケのみこと)の再来として、脚摩乳は源太夫の神〔熱田明神の末社(まっしゃ)〕として、手摩乳は橘姫として描かれますが、この造形には典拠が見当たりません。一人の人物に別の人物のイメージを重ねていること、その関係性がはっきりしないことも、わかりにくさの一因でしょう。これまでに指摘(伊藤正義氏・集成本『謡曲集』解題など)されている金春禅竹特有の曖昧模糊(あいまいもこ)としたイメージの重層性につながる〈源太夫〉の特色のひとつと言えるかもしれません。

〔update 2020.06.05 能楽研究家後藤和也〕

 

恋重荷 こいのおもに

〈恋重荷〉では女御(にょうご)に恋をした老人が、「恋の重荷を持ち庭を廻ればもう一度姿を見せましょう」という女御の言葉を信じ持ち上げようとします。しかし、重い岩を綺麗に飾った荷だったため持ち上げられず、老人は恋い死にしてしまいます。老人の霊は鬼となって現れ女御を責めますが、やがて恨みも消え、女御の守り神(葉守の神)になると告げ消えます。この曲の最後で鬼が恨みを捨て守り神になるというのは、やや唐突であり違和感を感じます。ここで作者である世阿弥の鬼に関する見解を伝書(本文・注は岩波『世阿弥・禅竹』に拠る)から見てみましょう。世阿弥は『二曲(にきょく)三体(さんたい)人形図(にんぎょうず)』(二曲は舞と歌、三体は老体・女体・軍体の意)で、鬼を「砕動風(さいどうふう)(体を細かく動かして所作をする演技)」、すなわち「形鬼(きょうき)心人(しんじん)(形は鬼であるが心は人)」と、「力動風(りきどうふう)(力強く身を動かす荒々しい風体(ふうてい))、すなわち「勢形(ぜいきょう)心鬼(しんき)(勢いも形も心も鬼)」の二つに分けています。その上で『三道(さんどう)(能の作り方を書いた伝書)』では、力動風について「当流に心得ず(私の流儀では演じない)」と述べ、砕動風の鬼を演じても良い鬼としています。つまり、世阿弥の鬼は形は鬼であっても心はあくまでも人なのであり、だからこそ〈恋重荷〉では最後に守り神になると言えたのでしょう。「葉守の神」への転換の背景には、世阿弥の鬼能観が表われているとも言えます。ところで、老人の死後、女御は「かの者(老人)の姿を一目(ひとめ)ご覧候(そオらエ)へ」という臣下(しんか)の言葉に従い亡骸(なきがら)の元へ行きますが、「さらに立つべきようもなし」と立ち上がれなくなってしまいます。そこへ鬼が登場します。つまり、物語の中では老人の亡骸の前に、鬼となった老人の霊が現れることになります。こうした設定は世阿弥の夢幻能(むげんのう)では珍しく、異色の曲と言えます。

小袖曽我 こそでそが

〈小袖曽我〉は上演頻度の多い人気曲です。あらすじから見てゆきましょう。「父の仇討ちを前に曽我十郎祐成・五郎時致(時宗トモ)兄弟が母を訪れます。五郎は母の意向に背き出家をせず元服したため勘当されていました。しかし、祐成の説得により母は勘当を解きます。兄弟は母と喜びの盃を交わし、舞を舞い敵のいる狩場に向かう」という内容です。          

〈小袖曽我〉は仇討ち物であらすじに見る通り分かりやすい筋立てです。ただ、能では描かれていない背後の人物関係はやや複雑なので整理しておきましょう。

 工藤左衛門尉祐経が父の工藤祐継から相続するはずだった所領を従弟の伊東祐親に横領されてしまいます。祐親を恨んだ祐経は祐親を狙って傷つけます。そして、その場にいた祐親の子である河津三郎祐泰が、祐経配下の大見小藤太と八幡三郎が放った矢により射殺されます(その後二人は伊東方に討たれます)。その殺された河津三郎祐泰の子が、十郎祐成・五郎時致・九上の禅師でした。父の死後、母が曽我祐信と再婚したため、姓が河津から曽我に変わりました。

 五郎時致は父の菩提を弔うため母から出家するよう命じられていました。しかし、父の仇討ちを果たすため出家をしなかったため母から勘当されていました。〈小袖曽我〉では母からの勘当の許しを願う兄弟の心理と母の情が細やかに描かれています。仇討ち物ですが母に許された兄弟による喜びの相舞が見どころです。  

 史実では兄弟は仇討ちを果たしますが、十郎祐成はその場で討たれ、五郎時致は後日、斬首の刑に服しています。この曽我兄弟による仇討ちは「曽我物」として、能や歌舞伎などでも描かれ、能では〈小袖曽我・夜討曽我・元服曽我・禅師曽我・調伏曽我(上記三曲金春流にナシ)〉が演じられていますが、廃曲を含めると二十曲程の「曽我物」の曲があり、人気の高さが伺えます。

 〈小袖曽我〉の作者は未詳ですが作者付史料『自家伝抄』には宮増作とあります。また、『能本作者註文』に「作者不分明能 但シ大略金春能か」とありますが、詳しくは分かりません。〈小袖曽我〉は『曽我物語』の「小袖乞の事」を典拠としていますが、能では曲名にもなっている小袖については触れられていません。理由は省略説など諸説ありますが不明です。なお、ワキが登場しないのも異例です。

 仇討ちは古来から慣行としてしばしば行われていました。しかし、鎌倉幕府が定めた「御成敗式目」で仇討ちは禁止され、室町時代には「建武式目」が制定されましたが、これは「御成敗式目」の追加法という位置づけでもあり、室町時代も仇討ちは法制上禁止されていました。その仇討ちが条件付きで認められるようになったのは江戸時代になってからのことでした。なお、仇討ちを果たした者への報復は禁止されていました。仇討ちが禁止されるのは1873年(明治6)になってからです。現在でも「仇を討つ・敵をとる・仕返し・親の敵」と言った表現が残っています。テレビの地上波のゴールデンタイムで時代劇が「大河ドラマ」しかなくなった現在、能の仇討物はその歴史を伝える貴重な存在になるかもしれません。

〔update 2021.06.05 能楽研究家後藤和也〕

胡蝶 こちょう

〈胡蝶〉のあらすじから見てゆきましょう。「都の古跡で僧が梅花を眺めている所に女が現れます。女は胡蝶の精であると告げ、梅花に縁の薄いことを嘆き回向を求めます。その夜、胡蝶の精が現れ、梅花と遊べるようになったことを喜び舞を舞う」という内容です。  

 〈胡蝶〉の作者は観世信光(のぶみつ)です。信光は観世座の大鼓方でしたが、金春座の太鼓方・金春弥次郎善徳に師事し太鼓方も勤めていました。能作者としても著名で、〈船弁慶・紅葉狩・鐘巻(道成寺の原曲)〉と言った風流(ふりゅう)能と呼ばれるショー的・スペクタクル性の高い曲を作っています。一方で、〈遊行柳〉のような閑寂な曲も作っているように、とても幅の広い作者で約三十曲ほどの曲を手掛けています。また、表章氏の「観世信光の生年再検」(『観世流史参究』所収)により信光の生年が従来の1435年ではなく1450年であることが論証され、〈安宅〉信光作説が完全に否定されることになりました(記録から少年時代の作という事になってしまうため)。

 〈胡蝶〉には部分的に『荘子』や『源氏物語』が素材として引用されていますが、作品の典拠は不明です。『謡曲大観』以来、胡蝶と梅は時機が異なり縁が薄いという本曲のモチーフは信光の独創とされて来ました。しかし、樹下文隆氏の「謡曲〈胡蝶〉の構想」により、京都の五山の禅僧が梅と蝶の縁が薄いことを詠んだ漢詩の存在を報告され、五山文学を中心とした中世の文化圏の中で〈胡蝶〉が構想されていることが指摘されています。

 金春流では〈胡蝶〉は長く現行曲には入っていませんでしたが、1965年(昭和40)の奈良金春会で、第79世金春信高師により復曲されました。

【奈良金春会】第76世金春広運(ひろかず)師の時代である1908年(明治41)に、第一回奈良金春会が催されました。今年で112年という歴史ある会です。金春流はもともと奈良を本拠地としていました。そのため、第79世金春信高師が1956年(昭和31)に東京へ移住した後でも、1962年(昭和37)に奈良金春能楽堂が奈良に建設されました。現在は御分家の金春穂高家が奈良を拠点とされています。なお、今年(2020年)は〈胡蝶〉を奈良金春会で復曲された金春信高師の生誕百年にあたる記念の年でもあります。

〔update 2020.04.07 能楽研究家 後藤和也〕

この花 このはな

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さ行

西行桜 さいぎょうざくら

〈西行桜〉のあらすじから、見て行きましょう。西行の庭の桜を見に都の者がやって来ます。心静かに桜を見たい西行は都の者が来るのも「桜のせいだ」と内心歎きます。その夜、西行の夢に老いた桜の精が現れ、桜に罪の無いことを告げます。これを機に西行を知りえたことを喜んだ精は、都の桜の名所を語り舞を舞い消える、という内容です。〈西行桜〉にはかつて金春禅竹説もありましたが、世阿弥の音曲伝書『五音』の記載や詞章などの特色から、現在では世阿弥作と考えられています。古くは〈西行・花西行・西行の能〉などとも呼ばれていました。どの曲名にも「西行」がついていますが、シテは桜の精である老翁です。曲名からも分かる通り、曲の構想や構成にも西行が重要な役割を果たしています。本曲は西行の私歌集『山家集』にある「しづかならんと思ひける頃、花見に人々詣で来たりければ、花見にと群れつつ人の来るのみぞあたら桜のとがにはありける」という歌をもとに構想されています。〈西行桜〉の前半は能力(寺の力仕事をする者)役のアイ、花見役のワキツレ、西行役のワキを中心に展開して行きます。この曲の主題は、伊藤正義氏が指摘(新潮日本古典集成『謡曲集』〈西行桜〉解題)するようにクセにありますが、夢中の翁とは老木の精であるとともに、桜を愛した西行自身ともみなすことが出来、ワキとシテの一体観がこの曲の前提となっているのかもしれません。 なお、西行が登場する曲は番外曲(現在演じられていない曲)を含めると、約20曲に及び、小町物(番外曲を含む)に次いで多く能で描かれています。現行曲では〈雨月・江口・西行桜・松山天狗(金剛流のみ)〉がありますが、いずれの曲もワキが西行を演じています。

佐渡 さど 

81世金春憲和師・金春流宗家継承披露能(2018年5月4日)で〈佐渡〉が上演されました。〈佐渡〉は第七十九世・金春信高師の新作能です。上演が稀な曲なのであらすじから見てゆきましょう。「佐渡に流された世阿弥のもとに、孫にあたる金春禅竹の娘と、小太郎が大和(奈良)から見舞いに来ます。世阿弥は小太郎に妻(寿椿)や女婿の金春禅竹のことを尋ねます。孫娘が世阿弥の前で舞(「熊野」のクセ)を舞うと、世阿弥も懐旧の舞(序ノ舞)を舞います。やがて夜が明けると、二人は世阿弥に別れを告げ去ってゆく」という内容です。孫娘と小太郎が配流先の佐渡へ世阿弥の見舞いに行く、という設定は作者の創作です。ただし、世阿弥が1434年に理由不明ながら将軍足利義教時代に佐渡に流されたのは史実です。70歳を過ぎてからの配流で、佐渡で著した小謡集「金島書」と女婿である金春禅竹宛の佐渡からの手紙が現存しています。その後、許されて帰還出来たのか否かについても確証はありません。世阿弥が帰依した奈良の補巌寺に残された納帳により、世阿弥の忌日が8月8日と判明している以外は詳細不明です。世阿弥の能における大きな業績とは対照的に、息男・観世元雅の早世や配流など不遇な晩年だったようです。

〈佐渡〉は世阿弥の佐渡配流を題材に世阿弥の能楽論の言葉(「離見の見」など)も散りばめられた、詩情豊かな曲となっています。『動かぬ故に能という』(講談社)などの名著を残した金春信高師の面目躍如と言える曲です。

 能の新作の歴史は世阿弥時代に約100曲が文献で確認でき、さらに室町時代末までに合計約700曲、江戸時代に約1500曲、明治以降に約300曲の新作能が作られ、伝存する曲の総数は約2500曲、うち五流現行曲が約250曲です。

自然居士 じねんこじ

〈自然居士〉の作者は観阿弥(かんあみ)原作・世阿弥改作です。観阿弥は初代の観世大夫(だゆう)で世阿弥の父です。観阿弥は南北朝期に流行した曲舞(くせまい)を能に摂り入れ、能の音曲(おんぎょく)面に大改革をもたらしました。観阿弥が関係する曲は、〈金札(きんさつ)・淡路(あわじ)・布留(ふる)(番外曲)・江口(えぐち)・松風(まつかぜ)・吉野静(よしのしずか)・卒塔婆小町(そとばこまち)・求塚(もとめづか)・通小町(かよいこまち)・自然居士・横山(よこやま)(番外曲)〉です。多くの観阿弥関係曲が世阿弥により改作されています。それでも、身近な素材・劇的な展開・会話の妙・物まね(写実的)の面白さと歌舞(かぶ)の融合など、能の創世記の生き生きとした作風が感じられます。中でも〈自然居士〉は観阿弥の作風がよく残されている曲の一つです。〈自然居士〉のあらすじを確認しておきましょう。雲居寺造営の勧進説法をする自然居士の元へ、少年が身を売って得た小袖と諷誦文を捧げた後、人買いに連れ去られます。追いかけた居士は、人買いに様々な芸能を見せ、それと引き換えに少年を連れ戻す、という内容です。シテである自然居士は、これまでの研究により実在した説教芸能者をモデルにしていることが知られています。最も古い例では永仁2(1294)年の『渓嵐拾葉集』に「ササラ太郎(自然居士)」の名で見えます。〈自然居士〉は世阿弥の『三道』に「自然居士古今有リ」と記されています。従来、この記事は説法段の有無と関連して考えられて来ました。そうした中で竹本幹夫氏は「『三道』の改作例曲をめぐる諸問題」において、世阿弥による削除とそれ以外の部分の改作の可能性、また、観阿弥以前に古型の〈自然居士〉が存在し、それを観阿弥が改作したという意味での「古今」の可能性を指摘されました。〈自然居士〉はその成立に関し、複雑な歴史を持つ曲と言えそうです。

石橋 しゃっきょう

〈石橋〉は現行曲の中で唯一獅子(しし)をシテとする曲で、歌舞伎にも影響を与えた曲です。能では動物(畜類)をシテとする曲が余り多くありません。世阿弥の「風姿花伝第二物学(ものまね)条々(じょうじょう)」にも、「女・老人・直面(ひためん)・物狂(ものぐるい)・法師・修羅(しゅら)・神・鬼・唐事(からごと)」は挙げられていますが、獅子など動物への言及はありません。動物をシテとする曲は、狐の〈小鍛冶(こかじ)・殺生石(せっしょうせき)(殺生石の精〉、鶏の〈初雪(はつゆき)・鶏龍田(にわとりたつた)〉、〈胡蝶(こちょう)〉、〈鷺(さぎ)〉、〈土蜘蛛(つちぐも)〉、〈石橋(しゃっきょう)〉、金春流にはない曲で蛇の〈現在七面(げんざいしちめん)〉や後ジテが虎の〈龍虎(りょうこ)〉などしか現行曲にはありません。作者が明らかな曲は〈胡蝶・龍虎〉が観世信光(のぶみつ)、〈初雪〉が金春禅鳳(ぜんぽう)です。禅鳳には替間(かえあい)の〈猿婿(さるむこ)〉で猿が登場する〈嵐山〉もあります。速断はできませんが、動物をシテとする曲は概(おおむ)ね世阿弥時代以降の曲が多い印象で、主だったシテの人体が出尽くした結果、動物にまでシテの範囲を広げて行ったのかもしれません。シテではありませんが、動物が登場する曲に、金春流だけで演じられていて子方が鵜を勤める〈鵜祭(うのまつり)〉、ツレ(または子方、本来は鶴と亀がシテ・ツレ、帝王がワキとも、学燈社「能・狂言必携(ひっけい)」解題)が鶴と亀の〈鶴亀(つるかめ)〉があります。また、動物の登場はありませんが、動物が筋の展開に大きな役割を果たしている曲があります。世阿弥改作の〈鵜飼(うかい)〉では鵜と魚。世阿弥の〈蟻通(ありどおし)〉では馬、〈放生川(ほうじょうがわ)〉は魚。〈阿漕(あこぎ)〉や金春流にはなく古作と言われる〈合甫(かっぽ)〉や〈国栖(くず)〉の魚、〈道成寺(どうじょうじ)〉や金春流になく信光作の〈大蛇(おろち)〉には蛇、〈木曽(きそ)(金春流ナシ)・善知鳥(うとう)・鳥追舟(とりおいぶね)・花月(かげつ)〉の鳥、〈松虫〉等です。動物が直接出ない曲では信光作など時代が下る曲もありますが、比較的古い曲が多く動物の扱い方にも時代的な傾向があるようです。

 

演目解説「石橋」

【あらすじ(前場の内容も記載)】中国の寂昭法師が文殊菩薩がいるという清涼山へ続く石橋を渡ろうとします。すると樵が現れ石橋を渡るのは危ないから奇瑞を待つように告げて消えます。やがて菩薩に仕える霊獣の獅子が現れ、牡丹の前で華やかに舞を舞います。

【見どころ】牡丹の花が咲く豪華な舞台は圧倒的です。力強い囃子とともに現れる獅子による豪快な舞が見どころです。最後の謡もテンポが速く、能のイメージが一変するような大曲です。今回は赤白二体の獅子が現れより華やかな舞台になります。

【石橋の歴史】「石橋」の作者や出典は不明です。ただし古い演能記録が残っており室町時代に成立していたことは確かです。しかし、その後、全く演じられなくなり、江戸時代に復曲(表章氏「石橋の歴史的研究」など)して、現行曲となり現在に至ります。

【石橋の演出】獅子が片膝をついて両手を広げ頭を回すなど、大胆な型や所作が続きます。他曲には見られない大胆な演技は、「石橋」が江戸時代に復曲したため、江戸時代に考えられた演出で演じられているからです。

【半能】現在「石橋」はほとんど半能(後場のみ)で演じられます。祝言性をより強調するためでもありますが、実は「石橋」は前場と後場の連絡がうまく行っていないことが(表章氏『能楽史新考2』など)、半能が多い理由です。

【前場と後場】前場では寂昭法師が文殊菩薩に会いにゆくことから「石橋」は始まります。にもかかわらず、後場では法師のことも菩薩のことも全く触れられず、獅子が豪快に舞う様だけが描かれます。前場と後場の不整合が、半能の多い理由かもしれません。

【習物】能で「習物」といって修得に御宗家の特別な許可と伝授が必要な曲があります。「石橋」も習物の曲です。その意味でも、今回の「石橋」は貴重な観能の機会です。ただ観る側としては、面白い曲なので、舞台上の獅子の舞を楽しんで頂きたいと思います。

【獅子】「石橋」に出てくる獅子は、文殊菩薩(知恵を授ける菩薩)に仕える霊獣で、文殊菩薩を背に乗せます。お寺などの仏像をよく見ると、獅子の上に文殊菩薩が乗っているのに気づきます。動物園のライオンとはちょっと違います。

〔2023.01.04 能楽研究家後藤和也〕

 

舎利 しゃり 

あらすじから見てゆきましょう。「旅僧が泉涌寺(せんにゅうじ)にやって来ます。僧は寺の能力の案内で仏舎利を拝みます。そこへ、ゆえありげな異形の男姿の足疾鬼(そくしっき)が現れ僧とともに拝みます。すると男が鬼に変わり仏舎利を奪い、舎利殿の天井を破って消えます。やがて韋駄天に追われて足疾鬼が現れます。足疾鬼は韋駄天にこらしめられ仏舎利を返します」。

天野文雄氏「作品研究 舎利」(『観世』)によれば、前場のシテは里人ですが、室町期の装束付によれば上掛リ(観世・宝生)・下掛リ(金春・金剛・喜多)ともに前ジテは童子(中世では鬼神はしばしば童子の形をとって現れた)でした。なお、間狂言でのワキとアイとの問答でワキが「童子のごとくなる者」と述べる事がありますが古形の痕跡と考えられています。また、冒頭の次第「旅の衣のはるばると、旅の衣のはるばると。都にいざや急がん」が上掛リにはありません。

〈舎利〉の作者は不明です。最古の演能記録は寛正五年(1464)11月10日、仙洞御所における音阿弥(第三代観世大夫。世阿弥の弟四郎の子で一時、世阿弥の養子になっていたらしい)所演です。世阿弥以後の作風と考えられていますが、寛正五年までには成立していたことが分かります。天野氏稿によれば室町期を通して各流で演じられています。ところが、室町末から江戸前期には観世・宝生では演じられていなかったようです。それを反映し江戸前期までは〈舎利〉を「金春の能」と記す古史料もあります(観世・宝生で演じていないためで、金春で作られた曲という意味ではない)。

出典は『太平記』巻八「谷堂炎上事」などです。〈舎利〉の中入リでは作リ物を壊して仏舎利を奪うなど、他の曲には見られない極めて珍しい演出があります。

 

泉涌寺 京都市東山区泉涌寺山内町27

泉涌寺・舎利殿

俊寛 しゅんかん

 〈俊寛〉のあらすじから見てゆきましょう。「平家打倒の企てが露見した俊寛・成経・康頼が鬼界が島で流罪になっています。島では俊寛が汲んできた水を酒に見立て三人が都をしのんでいました。そこへ赦免使が中宮御産の大赦を告げに舟で島へやって来ます。しかし、赦免状には三人同罪ながら俊寛の名前だけがありません。悲嘆に暮れる俊寛を一人島に残し、赦免使たちは舟で島から離れてゆく」という内容です。

〈俊寛〉の作者は未詳です。しかし、近年の研究(集成本『謡曲集』解題・新古典『謡曲百番』前付など)によれば、禅林詩句の引用・〈歌占〉に見られる「滅色」の語の使用・〈角田川〉に通じる『新古今歌』の引用法・平易な表現と心理描写の妙・極限状況にある人間の描写などの特色から、世阿弥の息男である観世元雅説が有力とされています。

 〈俊寛〉は二場物の構成ですが、前場はワキ・赦免使が名ノリの後すぐに退場し、場面が鬼界が島に変わり後場となります。後場では赦免状に自分の名がないことを知った俊寛の心理が劇的に描かれてゆきます。そのため、舞の要素が全くない構成となっています。舞台上では成経・康頼を迎えに、そして俊寛だけを島に残し去ってゆく舟の作リ物が劇的な効果をあげています。余談ですが現在は作リ物の出し入れなどは後見の仕事ですが、室町時代には後見にあたる仕事をアイ(狂言方)が勤めていたことが指摘されています(小田幸子氏「能の舞台装置」)。 〈俊寛〉では最後に後見ではなくアイ(船頭)が作リ物(舟)を運び去る形で、珍しく効果をあげています。

 〈俊寛〉の「書上」についての金春安明師の考察(「観能のための曲目解説・俊寛」、金春流では明治別曲二十番から、他流でも書上に含めない流儀や時期があることを指摘)や、表章氏の「〈恋重荷〉ほど変化した曲はさほど多くないだろう。だが、〈砧・弱法師・大原御幸・蝉丸・俊寛〉などもほぼ似たケース」(「〈恋重荷〉の歴史的研究」とあるように、〈俊寛〉も上演が途絶えた時期があったと考えられています。それが各流を通して演出の幅が比較的大きな曲(装束・舟の扱い・専用面俊寛の差異など)になっている原因かもしれません。

 世阿弥が志向した「舞歌幽玄」(謡と舞による優美な能)とは対極に位置する異色の名曲と言えます。

 

〔2021.03.01 能楽研究家後藤和也〕

昭君 しょうくん

 世阿弥の『五音(ごおん)』や金春禅竹(ぜんちく)の『歌舞髄脳記(かぶずいのうき)』から、〈昭君〉は金春権守(こんぱるごんのかみ)作とされる古い曲です。ただ、現行の〈昭君〉は類型に合わせるために改作した後の形と言われています。そのためか、演出や主題などで混乱が多い曲でもあります。岩波大系本『謡曲集(ようきょくしゅう)上・昭君備考』で、横道萬里雄氏は、本来はワキがなく、シテの老人が最後まで残り、韓邪将(かんやしょう)を別人が勤め(アイがないのを本則とするのはそのなごり)、キリは昭君が舞う、クセは異格な点がありクセではないつもりで作詞した、などの指摘をされています。ところで、現行の〈昭君〉を「鏡」に注目することにより、統一感のある曲として解釈しようとする考察が小林健二氏(「昭君考」「国文学研究資料館紀要第7号」)にあります。小林氏は後ジテ韓邪将の唐突と思われる登場について、「鏡」は『後撰(ごせん)和歌集』以降、和歌の世界で創造されたと推測でき、その後、昭君説話と融合し説話世界で発展した。「鏡に恋しき人の映るなり」は、古今和歌集(こきんわかしゅう)註釈書(ちゅうしゃくしょ)などにより中世に民間で流布(るふ)し、それらに基づき〈昭君〉の前場が構成された。後ジテの韓邪将が『舞芸(ぶげい)六輪(ろくりん)次第(しだい)』や下間少進(しもつましょうしん)の装束付(しょうぞくづけ)から、冥官(みょうかん)(地獄の閻魔庁(えんまちょう)の役人)である倶生神(くしょうじん)(人と共に生まれその人間の一生の善悪全てを記録し死後閻魔王に報告するとされる神)であり、昭君を差し置いて[舞働(まいばたらき)]を演じるのは、鏡から浄玻璃(じょうはり)の鏡(地獄の閻魔庁にある生前の罪を映し出す鏡)の連想が働いており、出立が倶生神のものであるのも、浄玻璃の鏡と倶生神の性格の相似、同一線上で把(とら)えられていた関係を当時の約束事と考えると首肯(しゅこう)できる、と指摘しています。下間少進の『舞台の図』等から昔は柳の作リ物も出ています。改作を経ているだけに、複雑な背景を持つ曲と言えそうです。

猩々 しょうじょう

近年〈猩々〉に関する新しい史料の発見や指摘がありました。〈猩々〉の成立時期は香西精(つとむ)氏の指摘(『能謡(のううたい)新考』)以来、能の完成期以後とする見解が一般的でした。しかし、まとまった演能記録としては最古の「応永三十四年能番組」(八嶌(やしま)幸子氏が平成12年8月「観世」で紹介)に〈猩々〉があり、世阿弥時代の成立であることが判明しました。この番組の〈猩々〉に関して、表章氏が「世阿弥出家直後の観世座」(平成12年10月「観世」)で、前場のある完全な能であったろうこと、「乱(みだれ)」(特殊な舞)はまだなかったろうことを指摘しています。現在、〈猩々〉は前場のない半能形式ですが、半能形式を取る事が多い祝言(しゅうげん)曲に〈岩船・金札(きんさつ)〉があります(〈石橋(しゃっきょう)〉も半能形式が多い曲です)。前場もある〈猩々〉の室町時代の謡本は確認されていません。しかし、本曲の前場(まえば)と想定される曲に番外曲〈猩々前(しょうじょうまえ)〉があります。「ワキの高風(こうふう)が霊夢の告げに従い市で酒を売ると富貴の身となります。酒を買いに来る者の中に盃の数を重ねても顔色一つ変わらない者がいました。不審に思った高風が名前を教えないと酒を売らないと言います。すると自分は猩々というものだと名乗ると、酒を飲み、酒の樽を抱き「夫婦一緒にまた来よう」と言って波の中に消える」という内容です。前場を見ると、例えば「この壺に泉をたたえ、ただ今返えし授くるなり」が、傍線部を受け、猩々が酒壺を持って来たことを言っているのだと分かります(集成本『謡曲集・中』猩々)。前場を含めて〈猩々〉を見ると作者像が浮かんで来ます。天野文雄氏は使用される言葉などが〈邯鄲(かんたん)・松虫〉と影響関係にあること等から、金春禅竹(ぜんちく)作の可能性を指摘(大阪大学出版会『能苑日逍(のうえんにっしょう)』)しています。

正尊 しょうぞん

〈正尊〉の作者は観世長俊(かんぜながとし)です。長俊は〈紅葉狩(もみじがり)・船弁慶(ふなべんけい)・胡蝶(こちょう)・遊行柳(ゆぎょうやなぎ)〉などの作者で知られる観世信光(のぶみつ)の嫡男です。長俊作が確実な現行曲に〈江野島(えのしま)・大社(おおやしろ)・輪蔵(りんぞう)・花軍(はないくさ)・葛城天狗(かずらきてんぐ)(以上金春にナシ)・正尊〉があります。長俊は事実上、能の新作活動期における最後の作者です。ここで〈正尊〉の歴史を振り返ってみましょう。金春流の最古本は「吉川家(きっかわけ)旧蔵車屋本」(天正~文禄期)ですが、各流を通じ古い演能記録はほとんどなく、江戸時代初期には喜多流のみが演じていました。金春流では昭和37年11月の金春会で桜間竜馬師により復曲されました。〈正尊〉に関しては近年、新たな指摘がありましたので紹介しましょう。表きよし氏「〈正尊〉の子方について」(『銕仙(てっせん)』371号)で、現在子方が務める静が子方ではなくツレであつたことが指摘されています。また、伊海孝充氏『切合能の研究』(檜書店)では、徳川家宣(いえのぶ)時代に切合能が好まれた時代を背景に、喜多流で静を演技に自由のきく子方に変え、それに伴い、後場には本来登場していなかったと考えられる静を合戦場面に加え、後場をさらに華やかにしようとした演出変更だった、と指摘しています。吉川家旧蔵車屋本(法政大学能楽研究所ホームページ・能楽資料デジタルアーカイブ・謡本)にも、現行金春流謡本〈正尊〉にある「静ももろともに斬り払い斬り払う(オ)」はありません。〈正尊〉の起請文(きしょうもん)は〈安宅(あたか)〉の勧進帳(かんじんちょう)・〈木曾(きそ)(金春にナシ)〉の願書(がんしょ)と共に三読物(さんよみもの)として重視されていますが、観世・宝生・喜多では起請文を読む正尊がシテ、金春・金剛では起請文を読む弁慶がシテでワキは出ない特異な構成の曲です。

角田川 すみだがわ

【心は闇】「人の親の心は闇にあらねども、子を思う道に迷うとは」という、『後撰集(ごせんしゅう)』の藤原兼輔(ふじわらのかねすけ)の歌に基づくシテの謡があります。意味は「人の親の心は闇ではなく分別もあるが、わが子への想いの余り闇のように分別を失ってしまう」です。子供を探し求める母親の心情が謡われています。この歌には池田亀鑑(きかん)氏の『古典学入門』(岩波文庫)に、近世まで五十種以上の作品に再生し「心の闇」という思想の歴史が見られるとの指摘があります。能で「心の闇」がある曲は〈錦木(にしきぎ)・藍染川(あいそめがわ)・実盛(さねもり)・弱法師(よろぼうし)・鳥追舟(とりおいふね)・鵺(ぬえ)・綾鼓(あやのつづみ)(金春流ナシ)・元服曾我(げんぷくそが) (同)・天鼓(てんこ)〉の9曲です。このうち、兼輔の歌の意で使われているのは〈元服曽我・天鼓〉だけです。〈天鼓〉では「われと心の闇ふかく(自分自身と親ゆえの子を想う迷いの闇が深く)、輪廻(りんね)の波にただようこと」とありますが、傍線部だけで背景にある歌までイメージするのは難しい気もします。〈錦木・藍染川〉は「かきくらす心の闇に惑ひにき夢現(ゆめうつつ)とは世人(よひと)(さだ)めよ」(『古今集(こきんしゅう)・伊勢物語』)に基づき、元歌は「恋の迷い」を歌ったものです。他の曲は「煩悩(ぼんのう)に迷う心を闇に譬(たと)えたもの」(岩波大系本〈弱法師〉該注)です。能では「心の闇」が親の子への想いとして使われる例が少ないことが分かります。さて〈角田川(すみだがわ)・藤戸(ふじと)・木賊(とくさ)〉には「人の親の心は闇にあらねども、子を思う道に迷うとは」と歌がほぼそのままの形で引かれています。「心の闇」で親の子への想いが表現できるにも関わらず、あえて和歌を引用した事からは、親の子への想いをより直接的に分かり易く表現しようとする作者の意図が感じられ、それが能の中でも屈指の劇的な展開である〈角田川〉や〈藤戸・木賊〉の曲趣と合い、効果をあげていると言えるのではないでしょうか。

是界 ぜがい

【是界①】〈是界〉は「中国の天狗是界坊が日本の仏教を妨害するため日本へ飛来しますが、比叡山の僧の祈りにより退散させられる」という内容の曲です。

 作者は竹田法印定盛(1421~1508)です。竹田家は代々医家ですが謡や能に親しんでいた記録が残されています。世阿弥や金春禅竹など能役者が能作を行うことが一般的な中で、知識人による能作としても貴重な曲です。〈是界〉の類話は『今昔物語集』にもありますが、直接的な典拠として『是害坊絵巻』が指摘されています(集成本『謡曲集』解題)。この『是害坊絵巻』を脚色して〈是界〉が作られています。なお、ワキは現行諸流とも僧ですが、現在ツレの太郎坊をワキとする古謡本の存在も報告されています。

 なお、世阿弥の伝書には天狗の記述はありません。いわゆる天狗物として〈鞍馬天狗・車僧・是界・大会〉があります。〔2019.02.25、後藤和也〕

【是界②】〈是界〉は天狗物(てんぐもの)の曲です。現行曲では〈花月(かげつ)(天狗の語のみで天狗物ではない)・鞍馬天狗(くらまてんぐ)・是界(ぜがい)・大会(だいえ)・車僧(くるまぞう)・松山天狗(まつやまてんぐ)(金剛流のみ)〉がありますが、近年他流で復曲された〈樒(しきみ)天狗〉など廃曲を合わせると三十曲程(西野春雄氏「古今謡曲総覧・下」「能楽研究」18)となり、決して少なくはない曲数のジャンルです。ここで天狗物の曲を、山中玲子氏「天狗の能の作風」若草書房『能の演出』所収)に基づき概観してみましょう。世阿弥の『風姿花伝第二物学条々(ものまねじょうじょう)』に「天狗」はなく、世阿弥時代に天狗の語がある曲は〈花月〉のみで、この時代には天狗物はなかったと考えられています。天狗が登場する曲で時期が早いのは、現行曲では〈鞍馬天狗〉です。しかし、義経(よしつね)の物語の中では、シテではありますが、まだ「重要な脇役」(山中氏稿)という位置づけです。山中氏稿によれば天狗の活躍を中心にし、天狗の造形を主目的とする曲(是界・大会・車僧など)が作られるのは応仁(おうにん)の乱(1467)以後の室町後期であり、天狗物について「スピード感・上下の運動・早変(はやが)わりといったこれまでの能の演技を特徴づけるものとは違った演技がこの頃に見られ、それは時代の要求だったのではないか」と指摘されています。

 〈是界〉の作者は『いろは作者註文(ちゅうもん)』から竹田法印(たけだほういん)定盛(さだもり)とされています。定盛は足利(あしかが)義政(よしまさ)の侍医(じい)を務めた医者で、『実隆(さねたか)公記(こうき)』などから、謡や能を嗜(たしな)んだ記録もある素人作者です。〈クセ〉の「佛敵(ふってき)法敵(ほオてき)となるぞ悲しき」や「降魔(ごオま)の利剣(りけん)を待つこそはかなかりけれ」(不道(ふどう)明王(みょうおう)の持つ悪魔を降伏(ごうぶく)させる剣で、調伏(ちょうぶく)されるのを待つのは惨めなことだ)とあるように、〈是界〉では勇ましい外見とは裏腹に、気弱な一面を持つ(平凡社『能・狂言事典』)天狗の造形に特色があると言えます。

関寺小町 せきでらこまち

〈関寺小町〉は世阿弥の音曲伝書『音曲声出(おんぎょくこわだし)口伝(くでん)』に「望憶(ぼうおく)・小町」として本曲の一部が引用されていること、作品内部の特色などから、世阿弥作が確実視されている曲です。小野小町(おののこまち)がシテですが、小町を素材とする曲は、番外曲(廃曲)まで含めると24曲にもなります。歌人を素材とする曲では「小町物」が最多です。現行曲では〈通小町(かよいこまち)(観阿弥・世阿弥改作)・卒都婆小町(そとばこまち)(観阿弥原作・世阿弥改作)・関寺小町(せきでらこまち)(世阿弥作)・草子洗小町(そうしあらいこまち)(作者不明)・鸚鵡小町(おうむこまち)(作者不明、金春流にナシ)〉です。その内の〈卒都婆小町・関寺小町・鸚鵡小町〉が、重い習物(ならいもの)である老女物です。小野小町は平安時代初期の美人女流歌人です。その小町をなぜ、老女として作者が描いたのかという疑問がわき起こります。中世の小町像は、かつて美人女流歌人として浮名(うきな)を流した小町ではなく、百歳の老婆となり路頭を徘徊(はいかい)する小町です。こうした中世の小町像を形作ったのが漢文体で書かれた『玉造(たまつくり)小町子壮衰書(こまちしそうすいしょ)』(平安時代中期ないし末期成立)です。本書は小町の物語として小町像の形成に大きな影響を与え、〈卒都婆小町・関寺小町・鸚鵡小町〉にも引用されています。〈鸚鵡小町〉は先行の老女物に拠(よ)って作られた曲であるため、〈卒都婆小町〉と〈関寺小町〉での『壮衰書』の引用のあり方を見てみましょう。〈関寺小町〉ではシテの最初の謡であるサシの部分が『壮衰書』を模した表現(集成本『謡曲集・中』該注)であり、クセには『壮衰書』に基づく部分がありますが、変形して引用されています。それに対し、〈卒都婆小町〉のそれは、ほぼ原文通りに引かれています。この引用法の差は、作者の差とも言え、〈卒都婆小町〉の『壮衰書』引用部分が観阿弥の原作当時の形を残している可能性もあると言えます。

〈関寺小町〉のあらすじから見てゆきましょう。「僧が稚児を伴い歌の道を尋ねるため、七夕祭りの日に近江の国の関寺に住む老女の庵を訪ねます。僧が老女と手習い歌の話をした際に、僧はこの百歳の老女がかつて美貌を誇った歌人の小野小町だと気づきます。小町は花やかな昔を振り返り七夕祭りに加わり、そこで稚児の舞を楽しみます。すると小町自身も杖にすがりながら舞を舞い」ます。

②〈関寺小町〉の作者は世阿弥の『音曲口伝』での引用、曲の特色から世阿弥作と考えられています。本曲はかつて美貌を誇った小町が老いて路頭をさまよう姿を描いたとされた『玉造(たまつくり)小町子壮衰書(こまちしそうすいしょ)』等が典拠です。老女となった小町が舞を舞う曲としては最初の曲です。世阿弥は『風姿花伝』の中で「この頃(五十有余)よりは、大かた、せぬならでは手立あるまじ」、つまり「五十歳を過ぎたらふつうは能を演じないという以外に手段はない」と言っていました。これは世阿弥が三十八歳の時の記述であり、実際には近江猿楽・犬王の台頭、足利義教(よしのり)の音阿弥(おんあみ)贔屓など、世阿弥の後半生は決して順風ではなく、五十歳以後も演能・創作にフル回転というのが実状でした。世阿弥が自身の加齢に応じた老女物を創作したのも自然な流れといえるでしょう。

【古式】〈関寺小町〉は能楽最奥(さいおう)の秘曲であり、現に金春流関係では約六百五十年の歴史の中で八人しか演じた記録が残っていません。金春流の謡本には宗家系と車屋本系(宗家系改訂本)の二種類があります。かつて金春安明師が本文系統の調査に基づき、現行〈関寺小町〉とは別に、本文の整備を行いました。その新たに整備された〈関寺小町〉を、小書「古式」として弟子家に開放しました。現代能楽史の中でも特筆されるべき大英断により成立した小書です。〔2022.01.03 能楽研究家後藤和也〕

殺生石 せっしょうせき

〈殺生石〉のあらすじから見てゆきましょう。「僧が那須野で女に会います。女は玉藻前という化生の者が宮中を逐われ石魂となった殺生石の由来を告げ消えます。僧が弔うと妖狐が現れ殺生石として人畜に危害を加えた事を語りますが仏事により改心する」という内容です。

〈殺生石〉の作者は佐阿弥など諸伝ありますが未詳です。出典については伊藤正義氏(集成本『謡曲集』解題・『謡曲雑記』)によりかなり明らかにされています。古く『神明鏡』に〈殺生石〉の元となる説話がありますが、よりまとまって流布した本に『玉藻前物語』があります。これが絵巻化されさらに流布し〈殺生石〉へとつながります。ところで、ワキの源翁は実在した曹洞宗の僧でした。彼の死後、多くの伝記が著わされましたが、その過程で殺生石を源翁が成仏させるという話が付加されました。出典の段階で〈殺生石〉の骨格は出来上がっていたと言えるほどです。〈殺生石〉はこれらの出典、中でも絵巻を舞台化した曲とも言え、現代で言えば劇画の映画化と同じような働きを能がしていると言えそうです。そのため、能の中でも最大級の作リ物である石が二つに割れ、中から後ジテの殺生石の精が現れる様を見せるのが眼目の曲です。

〔2020.07.07 能楽研究家 後藤和也〕

蝉丸 せみまる 

〈蝉丸〉のあらすじから見てゆきましょう。「延喜帝の第四の宮である蝉丸が盲目であることを理由に皇室をおわれます。蝉丸は逢坂山で剃髪され置き去りにされてしまいます。蝉丸が藁屋で琵琶を弾いていると髪が逆立つ奇病で心も乱れた姉の逆髪がやって来て姉弟の再会を果たします。二人は互いの不幸を嘆き合いますが、やがて逆髪は蝉丸を残し旅立ってしまう」という内容です。

 〈蝉丸〉は世阿弥の芸談集である『申楽談儀』が文献上の初出で、その記事からもともとは曲名が〈蝉丸〉ではなく〈逆髪〉であったことが分かります。ちなみに〈蝉丸〉のシテは逆髪で蝉丸はツレです。ただし、一曲を通して蝉丸は重要な役であり、両ジテと言ってよく、本曲の特徴の一つです。金剛流の小書(特殊演出)「琵琶之会釈(あしらい)」では蝉丸をシテとしているほどです。なお、ワキの清貫はシテの逆髪が登場する前に退場してしまう、という極めて異例な展開になっています。

また、〈蝉丸〉は場面構成に優れており、蝉丸の剃髪・逆髪との再会・姉弟の別離と、内容的にはかなり劇的な構成です。ただ、〈蝉丸〉自体は動きの少ない能です。もしかしたら、創作当時は今よりも動きの多い曲だったのかもしれません。というのも、〈蝉丸〉という曲が数奇な歴史をたどって来ている事にあります。少し振り返ってみましょう。室町時代以降、〈蝉丸〉の上演は途絶え、江戸時代の徳川綱吉(たいへんな能狂いでした。特に稀曲・廃曲を見たがる、というのが特色です)時代に復曲されました。近代になっても皇室の不幸を描くことが不敬にあたるとして、昭和15年には各流で上演を自粛していました。現在は五流現行曲ですが戦後の復活です。なお、作者は不明ですが観世元雅説が有力です。

草紙洗小町 そうしあらいこまち

〈草紙洗小町〉の作者は不明です。現在、比較的よく上演されており、人気曲の一つです。しかし、この人気曲にも長く演じられていない時代がありました。本曲の歴史を概観してみましょう。天正(てんしょう)頃(安土桃山時代)の観世・金春の最古の謡本が現存していますが、江戸時代になるまで上演された形跡が全くありません。五代将軍綱吉(つなよし)・家宣(いえのぶ)は稀に見る能好きの将軍でした。特に綱吉は宝生流を好み、廃曲や稀曲を見たがるという特色がありました。こうした風潮の中、「享保(きょうほう)九年書上(きゅうねんかきあげ)」では宝生流だけが所演曲とし、観世流では「天保書上(てんぽうかきあげ)」で正式な所演曲となっています。この辺の事情は小田幸子氏「作品研究・草紙洗小町」(『観世』昭和54年3月)に詳論されています。さて、下掛(しもがか)リ(金春・金剛・喜多)では江戸時代を通して上演された形跡がありません。ただし、謡本では現在の金春流の謡本の基になっている江戸時代の版本(はんぽん)(版木(はんぎ)に彫って印刷された本)である「六徳本(ろくとくぼん)」の内組・外組二百曲の外組に「草紙洗」として収録されています。また、明治40~41年に椀屋(わんや)書店から金春流最初の揃本(そろいぼん)である金春流五番(ごばん)綴本(とじぼん)(明治版130曲)が発行され、明治44~45年には、同書に20曲を追加した『金春流謡曲袖(そで)鏡(かがみ)』(150曲)の追加曲の中に「草紙洗」として収録されました。本曲の復曲も明治以後と推測されます。ところで、シテの小町は中(ちゅう)ノ舞(序ノ舞ニモ)を舞いますが、宝生流に「乱拍子(らんびょうし)」の小書(こがき)(特殊演出)があります。〈道成寺(どうじょうじ)〉で有名な乱拍子が〈草紙洗小町〉の創作当初からあった可能性が小田氏稿に指摘されています。本曲は登場人物の時代が合わない等の難がありますが、逆に作者の自由な発想が生かされているとも言え、華やかな曲に仕上がっています。

卒都婆小町 そとばこまち

〈卒都婆小町〉は観阿弥(かんあみ)原作、世阿弥(ぜあみ)改作です。世阿弥の手は入っていますが、古作の雰囲気を伝える曲です。老残の小町像は『玉造(たまつくり)小町子壮衰書(こまちしそうすいしょ)』(平安時代中期ないし末期成立)に基づいています。この書は世阿弥作の〈関寺小町(せきでらこまち)〉にも引かれていますが、同書の引用法の違いから、卒都婆問答の部分は観阿弥当時の古態を残している可能性が高いかもしれません。世阿弥は『風姿花伝(ふうしかでん)』第二物学条々(だいにものまねじょうじょう)で「物狂(ものぐるい)」を「思ひゆへ(エ)の物狂」と「憑物(つきもの)」による物狂に分け、前者を支持しています。その後の能作の流れの中で「憑物」系の物狂は主流から外れて行きました。しかし、〈卒都婆小町〉の後半は小町に四位(しい)の少将が憑くという趣向を取っています。増補を含めた『風姿花伝』同項の執筆時期と〈卒都婆小町〉の世阿弥による改作時期との関連などが注目されます。新潮日本古典集成『謡曲集・中』〈卒都婆小町〉解題で、伊藤正義氏が世阿弥の芸談をまとめた『申楽談儀(さるがくだんぎ)』の「小町、昔は長き能也(なり)。漕ぎ行く人は誰(タれ)やらん、と言ひ(イ)て、なほなほ(なオなオ)謡ひ(イ)し也(なり)。後(のち)は、その辺(あたり)に玉津島(たまつしま)の御座(ござ)ありとて、幣帛(へいはく)を捧げければ、みさきとなつ(ッ)て出現ある体(てい)なり…」という記事から、古型を推測されています。①ワキ僧は空海(くうかい)か空海に擬(ぎ)した僧らしいこと、②小町の道行(みちゆき)は高野山(こうやさん)まで続き、高野霊場の縁起讃嘆の謡があっつたかもしれないこと、③卒都婆には高野山の町卒都婆(里程(りてい)を示す)のイメージがあったこと、④高野山の地主神(じぬしがみ)である丹生明神(にうみょうじん)が玉津島と同体で、そこで小町の奉幣(ほうへい)となったこと、⑤高野(こうや)は烏(からす)が霊鳥で「みさきの烏」(山の神の使者としての烏)が出現し、烏は幣帛を取り上げ神託を告げる、と言った古型に関する興味深い推測をされています。

た行

高砂 たかさご  

【高砂①】「高砂・住の江の松も相生(あいおい)の様(よオ)に覚え」という『古今集(こきんしゅう)』仮名序(かなじょ)の一節から話が展開します。ただ、伊藤正義氏(「謡曲高砂雑考」『文林』昭和47年3月、新潮日本古典集成『謡曲集・中』)により、『古今和歌集序聞書(こきんわかしゅうじょききがき)(三流抄(さんりゅうしょう))』等に基づいて構想されている事が判明しています。諸説を踏まえつつ、前場をまとめてみましょう。高砂と住吉の松は老夫婦と同じく夫婦の松であり、しかも、高砂の松は『万葉集』、住吉の松は『古今集』の譬(たと)えなのです。さらに松は和歌を詠む種となり、松の栄が和歌の栄を導き、和歌の栄はその時代の繁栄と一体であると、松の謂(い)われが語られます。神主に求められ老人は名を名乗りますが、ここで上掛(かみがか)リ(観世・宝生)と言葉に違いがあります。シテの性格と関わる問題ですので、後場も含めて見てみましょう。上掛リでは「高砂住吉の、相生の松の精、夫婦と」に対し、金春は「高砂住の江の、神ここに相生の、夫婦と」です。上掛リは前シテを「松の精」とするのに対し、金春は「神」の化身であることを前面に出しています。後場では「あらわれいでし住の江の」が、上掛リは「現はれ出でし神松の」です。ここは『続古今(しょくこきん)』卜部兼直(うらべかねなお)の「西の海やあをきが原の潮路(しおじ)より現はれ出でし住吉の神」に基づいていることからも、金春が原形と言えそうです(岩波大系本『謡曲集・上』補注参照)。「神松」とあることから後場のシテを「住吉の松の神」とする理解もあります。「月すみよしの神あそび」と「住吉の神」という語もあり、後ジテは金春では住吉明神です。上掛リは前場で松の精、金春は神の化身、後場で上掛リは「神松」と言葉の上では松のイメージが残るのに対し、金春は住吉明神に絞ります。どちらが妥当かでなく、そうした解釈の幅を持つ曲と言えそうです。

【高砂②】〈高砂〉の「高砂やこの浦舟に帆をあげて、この浦舟に帆をあげて、月もろともにいでしおの、浪の淡路の嶋かげや、遠く鳴尾の沖すぎて、早や住の江につきにけり、はや住の江につきにけり」の小謡が婚礼で謡われることもあり、能になじみのない方にも〈高砂〉は比較的よく知られている曲のひとつです。
 ところで、「高砂や…」が婚礼で謡われるようになった時期については、すでに先学の考察(表章氏「「高砂や」のうたいについて」『能楽史新考(一)』)がるので、それに基づきつつ考えてみましょう。慶長頃出版の『八帖本花伝書』には「むことり、よめとりのうたひは、第一の祝言なり。高砂のうたひを本とせり」とあり、婚礼の席で〈高砂〉の謡が喜ばれたのは、室町時代からの古い風習のようです。ただし、〈高砂〉には小謡が「高砂や…」のほかに、「所は高砂の…」「四海波静かにて…」「千秋楽は民をなで…」と計四ケ所あります。江戸時代の小謡集を見ても「高砂や…」は船出や首途に分類されています。表氏稿では「〈高砂〉の小謡をあれこれ歌うのが普通であって、「高砂や」はその一つに過ぎなかったことが想像されるのではなかろうか」と指摘し、婚礼で「高砂や…」が謡われるようになった時期を、「幕末から明治中頃」ではないかと指摘しておられます。「高砂や…」が選ばれた理由の一つとして、「〈高砂〉の小謡で一番歌いやすいことが原因とも考えられる」と述べられています。
 余談ですが、時代劇の婚礼場面での「高砂や…」のイメージも大きいと思われます。ちなみに、時代劇で信長が舞う「人間五十年…」は能ではなく幸若舞曲の「敦盛」です。意外な所ではアニメ「タイガーマスク」の最終回で、〈東北〉の「それ和歌といっぱ」が流れる場面があります。

鷹姫 たかひめ

2021年11月05日(金)第16回 山井綱雄之會で上演。18:30~国立能楽堂 新作能「鷹姫」宝生和英/櫻間金記/観世喜正/山井綱雄

 〈鷹姫〉は横道萬里雄氏作の新作能です。あらすじから見てゆきましょう。「波斯(はし)国の王子である空賦鱗(クーフーリン)が不死の水が湧き出る泉を求めて、地の果てにある岩で覆われた孤島を訪れます。そこで一人の老人と会います。老人は不死の水が湧き出るのを九十九年待ち続けていました。すでに幽霊と化した老人は空賦鱗の望みは叶えられないことを告げます。すると空賦鱗は泉を守る女である鷹姫の叫び声を聞きます。空賦鱗は鷹姫に立ち向かいますが、やがて力尽き眠りにおちます。すると突如、泉から不死の水が沸き上がります。しかし、泉はすぐに枯れ果ててしまいます。空賦鱗は不死の水を得るという望みも叶えられず深い山の中で幽鬼となり果ててしまいます」。

 〈鷹姫〉は音楽面・演出面をはじめ様々な工夫が上演ごとに重ねられながら演じ続けられている稀有な新作能です。新作能の中でも群を抜いて上演回数が多い曲です。今回はシェークスピア劇演出家の木村龍之介氏が演出を手掛けられます。異なるジャンルの融合による斬新な舞台が期待されます。また、金春流第八十一世御宗家・金春憲和師、宝生流第二十世御宗家・宝生和英師をはじめ、シテ方五流(観世・金春・宝生・金剛・喜多)による異流共演という豪華な布陣となっています。山井綱雄師がこれまで行ってきた異なるジャンルの芸能との共演や幅広い交流が、〈鷹姫〉に結実していると言えるでしょう。なお、今回は金春流による〈鷹姫〉の初演であるため、金春流節付への改変は第八十世御宗家・金春安明師が手掛けておられます。

 〈鷹姫〉は能の影響を受けたノーベル賞受賞詩人・イェイツ作の劇詩「鷹の井戸」を横道萬里雄氏が改作して新作能〈鷹の泉〉を作り、さらに〈鷹の泉〉を改作・工夫して作られたのが〈鷹姫〉です。

「金春月報2021年11月号 能の表現―今月の演目〈鷹姫(たかひめ)〉からー」能楽研究家 後藤和也

 
〔update 2021.11.01(月)〕

忠度 ただのり

【忠度①】〈忠度〉の作者は世阿弥の芸談集『申楽談儀(さるがくだんぎ)』の「薩摩の守(かみ)(忠度の古名) 世子(ぜし)作」や、音曲(おんぎょく)伝書の『五音(ごおん)』の記述から世阿弥の作です。〈忠度〉の特色は修羅能でありながら、修羅の妄執(もうしゅう)や合戦(かっせん)の描写が中心ではなく、むしろ歌人としての忠度を桜を背景に描いている所にあります。『風姿花伝(ふうしかでん)』第二物学条々(だいにものまねじょうじょう)・修羅の「花鳥風月(かちょうふげつ)に作り寄せて、能よければ、何よりもまた面白(おもしろ)し」(風雅な花鳥風月などと関連させて能を作り、能の出来が良ければ何よりも面白い。日本古典全集『連歌論集・能楽論集・俳論集』参照)とあるのに合致する曲です。世阿弥も『申楽談儀』で「道盛(みちもり)(通盛)・忠度・よし常(つね)(八島(やしま)の古名)、三番、修羅がかりにはよき能也(なり)。此(この)うち、忠度上花歟(じょうかか)」と「上花」とあるように世阿弥の自信作でした。忠度の歌道への執心は藤原俊成(ふじわらのとしなり)に『千載集(せんざいしゅう)』への入集(にゅうしゅう)を懇願した「さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」が、朝敵(ちょうてき)の身であるため「読人(よみびと)知らず」として入集したことにあります。しかし、〈忠度〉では敢えてこの歌を出さず、「行(ゆ)き暮れて木(こ)の下陰(したかげ)を宿とせば花や今宵(こよい)の主(あるじ)ならまし」を中心に曲が構想されています。ところで、〈忠度〉には類曲があります。金剛(こんごう)流のみで演じられている〈現在忠度(げんざいただのり)〉は忠度が俊成宅を訪問し「さざ波や…」の歌の採録を俊成に約束され、酒宴で相舞(あいまい)を舞う現在能でシテは俊成です。また、金春流以外で演じられている〈俊成忠度(しゅんぜいただのり)〉では、「さざ波や…」の歌に梵天王(ぼんてんノう)が感動したことにより、忠度は修羅の責め苦を免(まぬが)れます。敵(かたき)の岡部六弥太(おかべのろくやた)をワキが演じます。このように見て来ますと、「さざ波や…」の歌を前面に出すのではなく、「花の主としての忠度像を描くこと」(新潮日本古典集成〈忠度〉解題参照)に、〈忠度〉の特色があると言えます。

【忠度②】〈忠度〉は世阿弥の能作論書『三道』に〈薩摩守〉の古名で新作の模範曲として挙げられています。また、音曲論書『五音』には作曲者名なし(この部分が世阿弥の作曲であることを意味します)で〈忠度〉の「ハヅカシヤナキアトニ」を掲げ、世阿弥の芸談集『申楽談儀』には「薩摩守 世子作」とあります。以上のことから世阿弥作が確実な曲です。『申楽談儀』で世阿弥は〈忠度〉を〈井筒〉とともに「上花」と評価しており、世阿弥快心の自信作であったことが分かります。 世阿弥以前の「修羅の能」は修羅道に堕ち修羅闘諍の世界に苦しむ能でした。それを「源平などの名のある人の事を、花鳥風月に作り寄せ」(『風姿花伝』物学条々)、従来の「修羅の能」を一新させたのが世阿弥でした。〈忠度〉ではそれがより徹底され修羅能でありながら、修羅道での苦しみが全く描かれず、和歌への執着を中心に描いている点が特色です。〈忠度〉は『平家物語』七「忠度都落」と九「忠度最期」に基づいています。世阿弥にとっては筋書き上の典拠という他に、武将歌人忠度という『三道』でいう所の「種(素材)」としての魅力が、世阿弥の理想とする修羅能のシテのイメージと合致していたのかもしれません。それは実際には四十を過ぎていた忠度を能では若い公達としていることにも伺われます。特に後ジテは金春禅鳳の『毛端私珍抄』に「いかにもいでたち花やかに」、同『反古裏の書』に「いかにもきやしやにいでたちてよし」とあり、武将歌人としての花やかさを前面に出している点に〈忠度〉の特色があります。後場では後ジテ一人で忠度と六弥太を演じ分けるなど、〈実盛〉の[語リ]を進化させたかのような演出など、随所に野心的な試みが見られる名曲です。

竜田 たつた

〈竜田〉は金春禅竹(ぜんちく)の作であることが確実視されています。竹本幹夫氏の「作品研究竜田」(『観世』昭和54年11月)には、神は登場するが神能として作られていないこと、本来は男体であるべき後ジテの神格を女体で表現していること、後ジテが巫女(みこ)の神がかりであるかのような設定であるらしいこと等の特色が指摘されています。〈竜田〉は「僧が竜田社参詣のため竜田川を渡ろうとすると巫女が現れます。巫女は古歌を引き僧の渡河をたしなめ別の道から社へ案内し竜田姫の化身と告げ消えます。その夜竜田姫の神霊が現れ紅葉を賞し神楽を舞う」という内容ですが、細かい点を見てゆくと、決して理解しやすい曲ではありません。その大きな原因の一つとして〈竜田〉の成立事情が挙げられます。竹本氏稿にも指摘がありますが、〈竜田〉は現在、観世流だけで演じられている〈逆鉾(さかほこ)〉という曲を下敷きにして作られている事が挙げられます。そのため、例えば[クセ]の前後などは〈逆鉾〉を前提としていなければ、内容が捉えにくくなっています。そうした難点はありますが、二つの和歌を視覚的に表現しようとした試み、荒ぶる鬼神が活躍する〈逆鉾〉の神を女体の神として描き直すなど、かなりの成功を収めている曲であることは、竹本氏稿に指摘がある通りです。ところで、後ジテがなぜ女体かということですが、和歌説話の中では秋の神として竜田姫が定説化していたらしいこと、また、竜田姫は竜田明神そのものとも混同された神格であったこと(竹本氏稿)が、理由となっているようです。後ジテは神楽を舞いますが、神楽を舞う曲は〈内外詣(うちともうで)・現在七面(げんざいななおもて)・絵馬(えま)・鱗形(うろこがた)(以上金春流にナシ)・竜田・三輪(みわ)・室君(むろぎみ)・巻絹(まきぎぬ)〉と余りありません。構想・成立事情など異色の曲と言えます。

田村 たむら

〈田村〉のあらすじは「旅僧が清水寺で童子と出会います。童子は坂上田村丸による清水寺建立の縁起や名所を語り、田村堂に消えます。その夜、坂上田村丸の霊が現れ、観音の助けで鬼神を退治した様を見せる」というものです。

〈田村〉の作者は不明ですが、作詞法の特色などから金春禅竹作の可能性もあることが、伊藤正義氏『謡曲集・中』(新潮日本古典集成)の〈田村〉解題で指摘されています。また、金春禅竹の『五音三曲集』に「幽玄第三、見様曲味」として、〈田村〉の詞章が引かれており、長禄4年(1460)以前には成立していたことが分かります。世阿弥伝書での〈田村〉への言及はありませんが、室町中期の金春家における世阿弥手跡を含む古能本の整理確認目録とでも言うべき性質(集成本『謡曲集』〈龍田〉解題』)の『能本三十五番目録』に「タムラ」の曲名が見えます。

〈田村〉は室町時代以来、演能記録も多く、現代まで各時代を通して人気のある曲です。〈田村〉は二番目物(修羅物)に分類されていますが、内容的には多くの修羅物に描かれる修羅の苦患などがなく、むしろ祝言性に満ち、脇能に近い内容の曲です。〈田村〉にはいくつかの特色があります。まず、坂上田村丸の武勇を描くだけでなく、清水寺の縁起についても丁寧に描かれています。シテも前シテが老人ではなく童子であり、しかも、後ジテが坂上田村丸です。これは現行修羅物の中でシテが源平の武将ではない珍しい例です。また、『平家物語』を典拠としないこと(他には〈朝長〉だけが『平治物語』を典拠とする)、構成面でも前場と後場にクセがあることも大きな特色です。明るく颯爽とした異色の修羅物です。   

張良 ちょうりょう

漢の高祖に仕える張良が下邳(かひ)の土橋で兵法を伝授するという夢を見ます。張良は下邳に行きますが、老人は明け方から来ており、張良の遅参を咎めます。老人は五日後に再び会うことを約束し立ち去ります。約束の日、張良は夜更けから老人を待っていました。すると黄石公(こオせきこオ)が馬に乗って現れました。黄石公は張良の志を試すため、履いていた沓(くつ)を川に落とします。張良が急流に流される沓を追いかけていると、竜神が現れ沓を拾い上げてしまいます。張良が剣を抜くと竜神は沓を差し出します。張良は沓を老人に履かせます。その様子を見ていた老人が秘伝の兵法を伝える巻物を張良に授ける、という曲です。

 作者は観世信光(のぶみつ)で『前漢書・史記』などが典拠です。ワキの張良が活躍する稀曲です。後見が沓を実際に投げるなど、他曲にはない大胆な演出があります。

〔2022.07.08 能楽研究家 後藤和也〕

土蜘 つちぐも

「病床の源頼光(みなもとのらいこう)のもとへ怪しげな僧(蜘の化身)が訪れ蜘の糸を投げかけます。しかし、頼光が刀で斬りかかると僧は姿を消します。その騒ぎを聞きつけた独武者(ひとりむしゃ)が血痕を辿ると蜘塚へ行き着き格闘の末、蜘を退治する」という内容です。〈土蜘〉は室町末期成立の『いろは作者註文(ちゅうもん)』に曲名が見えるものの、室町時代の演能記録はなく、江戸時代を通しても83回の上演記録(国文学研究資料館「演能データベース」)しかありません。作者も不明です。〈土蜘〉が現在のような人気曲となったのは幕末以降のことです。そのきっかけとなったのが、金剛(こんごう)流二十一世宗家(そうけ)の金剛唯一(ただいち)(ゆいいちトモ)が細く長い糸を多数投げる小書(こがき)(特殊演出) の「千筋之伝(ちすじのでん)」を考案し、他流もそれに倣(なら)うようになってからです。江戸初期成立の金春流『中村正辰仕舞付(づけ)』には「玉を三つ…わき(ワキ)へなげ(投)懸(かけ)る。玉は、かみ(紙)を五・六分(ぶ)に切(きり)て、長くつぎ(継)て、玉の様(よう)にま(丸)ろくま(巻)きて袂(たもと)に入て出る」とあり、今よりも太い糸を三本投げるだけだった事がわかります。ところで、この仕舞付には前場の「足もためずなぎふせつつ、と台より飛(とび)おりる」と、後場の「斬り伏せ斬り伏せと、あを(仰)のけにたお(倒)れる。足、橋懸(はしがかり)の方へ成様(なるよう)にたお(倒)れ、其(その)ままお(起)き、楽屋へ走入也(はしりいるなり)」の後に「爰(ここ)にてちうが(宙返)へりなど仕(つかまつり)ても苦しからざる也(なり)」(能楽資料集成『金春安照(やすてる)型付集(かたつけしゅう)』、本文の表記を一部改変)とあり、かなり派手な演出もあったことが記されています。〈土蜘〉は『平家(へいけ)物語』の「剣(つるぎ)の巻(まき)」が典拠です。「土蜘」には大和朝廷に服属しない未開の土着民というを意味もありますが、本曲と直接には結びつきません。ワキやツレを始めとする入り組んだ各役の配置、全体の構成も破格な、意欲的かつ異色の曲と言えます。

 

上品蓮台寺の蜘蛛塚

東向観音寺の蜘蛛塚

経政 つねまさ

【経政①】〈経政〉は作者不明とされている曲です。作者について詞章から考えてみましょう。
【世阿弥関係曲】「日々夜々の法(のり)の門(かど)」(実盛(さねもり)「…場」)、「よし夢なりとも現(うつつ)なりとも」(錦木(にしきぎ)に同文)、「昔を返す舞の袖」(井筒(いづつ)「…衣手(ころもで)に」)、「あら名残惜しの夜遊(やイウ)や」(西行桜(さいぎょうざくら)に同文)、「吹き消して暗紛(まぎ)れより」(山姥(やまんば)「暗紛れよりあらはれ出づる」などとあり、世阿弥の影響下にある曲と言えそうです。
【元雅(もとまさ)作説の可能性が指摘されている曲】「ましてや多年のおん知遇(ちぐう)」(盛久(もりひさ)「…知遇の御結縁(ごけちえん)」)、「貴賎の道」(弱法師(よろぼうし)「…場」)、「夜の灯火(ともしび)かすかなる」(朝長(ともなが)「灯火の影幽(かす)かなるに)、「またきえきえと形もなくて」(角田川(すみだかわ)「消え消えとなり行けば」、「常は手馴れし四つの緒(お)に」(蝉丸(せみまる)「いかで調(しらべ)の四(よつ)の緒に」)、「すでにこの夜も夜半楽(やはんらく)」(天鼓(てんこ)「夜半楽にも早なりぬ」)など、元雅関係曲との類似が目立ちます。      

世阿弥伝書からの引用もあり、「時の調子もいかならん」が『風姿花伝・第三問答条々(もんどうじょうじょう)』など、「律呂(りつりょ)の声声(ごえ)に」が『花鏡(かきょう)』の「無調は、律呂両声より出でたる」、「心声に発す」は『音曲口伝(おんぎょくくでん)』の「情発於声」に基づいています(本文は岩波書店『世阿弥・禅竹』に拠る)。

シテである経政の描かれ方にも特色があります。「夜の灯火かすかなる…幻に参りたり、夢幻(ゆめまぼろし)に参りたり…灯火をそむけては」と「ともし火」や「夢幻」の中に現れますが、元雅作の可能性が高い〈朝長〉にも「灯火の影幽かなるに…もしも夢か幻か、もとよりも夢幻の仮りの世に」と言った同趣向の表現があります。使用語彙、伝書からの引用、〈朝長〉との趣向の類似(他に弔いの方法―朝長は観音懺法(かんのんせんぼう)、経政は上掛(かみがか)リでは管弦講(かげんこう))などから、元雅作の可能性もある曲かもしれません。

【経政②】〈経政〉は武人をシテとする修羅物と呼ばれる曲です。その修羅物について世阿弥は『花伝(風姿花伝)』第二物学条々で「よくすれども、面白き所稀なり。さのみにはすまじき也。ただし、源平などの名のある人の事を、花鳥風月に作り寄せて、能よければ、何よりもまた面白し。これ、ことに花やかなる所ありたし。これ体なる修羅の狂ひ、ややもすれば鬼の振舞になるなり」と述べています。世阿弥以前は鬼がかりの修羅物が中心でしたが、和歌(忠度)や笛(敦盛・清経)など、修羅の要素だけではなく、風流韻事に結びつけ修羅物を改革したのが世阿弥でした。〈経政〉で琵琶(青山)が大きな位置を占めているのも、世阿弥風の修羅物の影響が強いからだと思われます。

〈経政〉の構成は中入リのない一場物のシンプルな構成です。しかし、シテの設定にはかなりの工夫がされています。一の谷で討たれた経政のために、琵琶(青山)を手向け仏事をなしている所に、琵琶の音に引かれるように経政の霊が現れます。その経政の姿は灯火の中で「あるかなきかに見」え、「形は消え声は残」るという独特な設定になっています。視覚よりも聴覚に重点を置いた設定は琵琶との関係も含め〈経政〉の特色と言えます。 

また、世阿弥伝書にもある言葉の引用も注目されます。「時の調子もいかならん」の「時の調子」が『花伝』第三問答条々などにあります。「律呂の声声に」は『花鏡』の「無調は、律呂両声より出でたる」、「心声に発す」は『音曲口伝』に「情発於声」とあります。世阿弥伝書の引用など、〈経政〉は作者不明ながら世阿弥周辺の人(元雅など)によって作られた可能性のある曲かもしれません。

天鼓 てんこ

〈天鼓〉の作者は不明ですが、世阿弥の息男である観世元雅作を示唆する伊藤正義氏の指摘(新潮日本古典集成『謡曲集・中』〈天鼓〉解題)と、竹本幹夫氏に素人の作詞・玄人の作曲とする見解(「作品研究・天鼓」『観世』昭和50年7月)があります。

ここで〈天鼓〉の内容を確認しておきましょう。帝が天鼓の鼓を召し取ろうとしますが、天鼓はそれに応じず殺されてしまいます。帝は天鼓の父を呼び鼓を打たせると妙音を奏でます。天鼓を弔うと天鼓の霊が現れ供養を感謝し、鼓を打ち舞を舞うというものです。

本曲は典拠がない作り能です。

「解題」にも指摘がある通り、天鼓という語のイメージが本曲の構想に大きく関係しています。第一に天鼓には仏教で諸天衆が放逸な時に自然に音を出すことを踏まえた「天鼓自鳴」(『宝物集・上』)のイメージがあります。第二に伎楽演奏に伴う天上の音楽のイメージ(『法華経』寿量品など)が、第三に七夕の二つの星のひとつ牽牛の異名としても知られていました。これは管弦講が呂水で行われる〈天鼓〉では、呂水が天の河のイメージに重なり合っています(解題参照)。

ところで、管弦講が行われる曲に〈経政〉が、前後でシテが別人格の曲に〈藤戸・朝長〉があります。〈朝長〉は元雅作、〈藤戸〉も元雅作の可能性(集成本『謡曲集・下』〈藤戸〉解題)があり、〈経政〉も元雅関係曲である可能性がある曲です。「解題」にも指摘がありますが、現在、前ジテが王伯で王母は登場しません。しかし、「王伯王母とて夫婦の民あり」や「老人夫婦には数の宝を與えらるべきなり」とあるように、王母も出るのが本来でした。現存最古の下掛リ系装束付である『舞芸六輪次第』にも、前場に「つれ女」が出ていたことが記されています。

道成寺 どうじょうじ

【道成寺①】〈道成寺〉は能の中でも屈指の人気曲です。能の曲には室町時代以降、余り変化のない曲、改訂された曲、大きく変化した曲などがあります。その中で〈道成寺〉は大きく変化した曲に当たります。元々、〈道成寺〉は〈鐘巻〉という曲でした。この段階では、まだ鐘を出していなかったことを示す史料(『童舞抄』など)もあります。それが鐘を出し、元来は白拍子の美しい舞踊であり、また、能以外でも舞われていた乱拍子が、技術的に特殊化して行きました。こうした演出上の変化に伴い筋の上でも、〈鐘巻〉にはあった女人禁制の寺に女を入れる際、能力が僧に相談して許可する場面や、前ジテの白拍子の女が道成寺建立の縁起をクセで舞う場面が省略されました。また、〈鐘巻〉では最後、蛇体となった女の「執心は消えて」なくなります。省略化・縮小化の過程で結末も変えられ、大蛇は日高川に飛び込んで逃げるところで終わってしまい、執心が消えたかどうかも分からない、やや曖昧な終わり方に変えられました。こうした過程を経て、現在の〈道成寺〉の形になりました。鐘入り、乱拍子などを中心とすることで、恐らく長大化したのでしょう、原曲の〈鐘巻〉を切り詰めて行くことで成立したのが〈道成寺〉なのです。そのため、筋立ての上では、やや無理がある所が残っているのです。ところで、大きな見せ場である鐘入りには幾つかの型がありますが、特に桜間家には斜入という鮮烈な型が伝わっています。また、故桜間道雄師は飛び込むのではなく、鐘の下に下居し(座り)、その上から鐘が下りてくるという、事実上、新演出の鐘入りを披露し絶賛されたことがありました。〈道成寺〉は演出上の理由から筋立てまで大きく変えてしまった曲で、その意味でも異彩を放つ曲です。

【道成寺②】〈道成寺〉は観世信光(のぶみつ)(舟弁慶(ふなべんけい)・紅葉狩(もみじかり)など廃曲を含め約30曲を作能した観世座の囃子方)作と伝えられる〈鐘巻(かねまき)〉を短縮改訂した曲です。金春元安(もとやす)(後の禅鳳(ぜんぽう))本〈道成寺〉が現存し、その改訂には未詳ながら、金春流が関与していた可能性も想定されています。また、江戸初期の小鼓伝書である『幸正能(こうまさよし)口伝書(くでんしょ)』(幸正能は幸流・幸清流の実質上の流祖)には、〈道成寺〉の乱拍子が多武峰八講(とうのみねはっこう)猿楽(さるがく)(新作を披露するのが通例)において、金春系の役者により初めて舞われたことが記されています。確証はないものの、〈道成寺〉の成立には金春流が何らかの関与をしていた可能性があるかもしれません。〈鐘巻〉から〈道成寺〉への改訂は短縮化であり、具体的にはシテの寺への入場を制止する場面の簡略化、道成寺縁起が語られるクリ・サシ・クセの省略などです。また、結末も〈鐘巻〉ではシテが成仏するのに対し、〈道成寺〉ではシテは祈り伏せられ日高川に飛んで入る場面で終わっているため、シテが救われないまま曲が終わってしまう等、筋書き上やや無理のある構成になっています。こうした不整合を犯してまで改訂した理由は、乱拍子・鐘入リという見せ場を強調するためと考えられています。元々、乱拍子は白拍子系の数え舞で、現在の〈道成寺〉で見られるような気迫と緊張感を持つ舞ではなかったとされています。鐘入リに関しては、天野文雄氏が『能という演劇を歩く』(大阪大学出版会)において、鐘入リには、①鐘の下に入り飛ぶ型、②外から飛び込む型、③以前、桜間道雄師が演じた、鐘の下に座し静かに鐘を下ろす型(廻リ入リ)があり、③が古史料や詞章との関連から、鐘入リの原形であった可能性もあるという興味深い指摘をされています。

東北 とうぼく 

〈東北〉は上掛リと下掛リで本文に異同の多い曲です。特に終曲部の[ロンギ]の「げにや色よりも~梅花(ばいか)よもに薫(くん)ずなる」が、上掛リと金剛では[ノリ地]で異文の「シテげにや色に染(そ)み 香(か)に愛(め)でし昔を、地よしなや今さらに 思ひ出(い)づれば われながら懐かしく 恋しき涙を おちこち人に 漏らさんも恥づかし 暇(いとま)申さん」となっています(本文は新潮日本古典集成・下「軒端梅(のきばのうめ)」)。集成本「軒端梅」解題が指摘するように、古今集(こきんしゅう)の引用や構成から判断して金春の形が原形と言えます。では、なぜこうした異同が起きたのでしょうか。『舞芸六輪(ぶげいろくりん)』(永正(えいしょう)期の内容を伝え、下掛リ色が強いとされる、現存最古の装束付(しょうぞくづけ)を主とした伝書)に「軒端梅(東北、筆者注)には、面によりて、キリをかへて謡ひて、様(さま)よきやうにと用(もち)ふべし。金春、小面(こおもて)は、歳二十三程也(なり)。是(これ)はロンギになして用(もち)ふべし。深井(ふかい)面は、歳四十ばかりなるほどなれば、例式のキリに謡ひて用ふべきという」(適宜表記を改変)という記述があります。これによれば、小面の時がロンギ型、深井の時がノリ地型と二つの選択肢があり、その中で、下掛リの金剛はノリ地型を選択したと言えます(解題参照)。この異同は金春の形を簡略化したもの、ともとれます。しかし、異同が確認できる室町後期の演能所要時間は現在の四割程の時間であり、室町中期と大差がないとされています(岩波講座『能・狂言Ⅰ能楽の歴史』)。とすると、簡略化、すなわち、時間短縮だけが目的ではないようです。この異同は面(現行の観世は若女・小面・深井)、つまり、演出にも関係し、曲の印象にも大きな影響を与えます。推測の域を出ませんが、この異同は能の創生期を過ぎ、各流儀が曲ごとの個性を主張し始めた差別化の表れ、とも言えるのではないでしょうか。

 とおる 

〈融〉のあらすじは「都へ上った旅僧が、河原院を訪れ潮汲みの老人に会います。老人は昔、源融がこの地に塩釜の浦の景色を再現したことを語り、僧に潮汲みの様を見せ消えます。その夜、源融の霊が現れ月光の下で舞を舞う」というものです。世阿弥の芸談集『申楽談儀』には〈塩釜〉を「世子作」としています。

〈塩釜〉は〈融〉の古名なので作者は世阿弥です。金春禅竹も〈塩竃〉としていますが、孫の金春禅鳳は「とをる」と曲名を表記しています。古名の〈塩釜〉からも分かるように、源融は実在した人で物で都の六条わたりの邸に陸奥塩釜の景色を移した広大な庭を所有していました。その風流三昧な暮らしぶりは『古今和歌集』や『伊勢物語』を通して広く知られていました。また、『今昔物語集』や『江談抄』には源融の死後、融の旧邸に融の霊が現れた話が記されています。

『申楽談儀』には源融に関連し「怒れることには、融の大臣の能に、鬼に成りて大臣を責むると云ふ能…」、また「鵜飼の…後の鬼も、観阿、融の大臣の能の後の鬼をうつす也」という記述があります。古作の鬼能の「融の大臣の能」が存在していたことが分かります。ただ、この古作と〈融〉との関係については、よく分かっていません。

〈融〉の構成上の特色の一つとして、中入前と、曲の最後の二か所に[ロンギ]が使われていることが挙げられます。前者は名所尽くし、後者は漢詩尽くしと言える内容です。また、最後が「名残惜しの面影」と体言(名詞)止めで終わるのも〈兼平・野宮〉などにしか見られず、極めて異例です。なお、「四門に映る月影までも、古秋に帰る…」の傍線部は各流で異同がありますが、金春流が古態を残しているようです。

木賊 とくさ 

〈木賊〉のあらすじから見てゆきましょう。「旅僧たちが帯同する少年松若の故郷である信濃の園原山へやって来ます。そこで木賊刈りをする老人に会います。僧はこの地の伏屋の森にあり歌に詠まれている帚木の歌について老人に尋ねます。老人はその歌について語ると僧たちを自宅に招きます。老人は行方不明になっている子供の話をし、子供の行方を知っている旅人がいるかもしれないと思い、旅人を宿泊させていると語ります。老人は子供が舞が得意だったことを語り、往時を偲び舞を舞います。やがて旅僧が連れていた松若がわが子であることが分かり父子が再会を果たす」という内容です。

 〈木賊〉は世阿弥作と考えられている曲です。金春流では1969年(昭和44年)に、金春信高師により復曲され、三春会でシテ・桜間道雄師により上演されました。しかし、その後は上演機会に恵まれず今度の上演は約半世紀ぶりということになる稀曲中の稀曲です。

 上演機会は稀ですが世阿弥晩年の隠れた名作と言え『風姿花伝』の「老木に花の咲かんがごとし」を舞台化しようとした意欲作とも言えます。前半は「その原やふせやに生うる帚木のありとは見えてあわぬ君かな」(新古今集・坂上是則)を中心に園原の名産である木賊刈りの風情を背景に展開しますが父子の再会という主題とはやや離れている印象が残ります。

 老人の自宅に戻ると、ツレが僧に老人が時に心を乱す時がある事を告げる場面があるのも異色です。老人は子供が行方不明になっていること、小歌曲舞が得意だったことを振り返り、子供の形見の装束を身に着け舞を舞うのは〈井筒〉の舞に近い趣向です。また、親子物狂では再会を引き延ばす役が通常ではワキですが、本曲では子方自身であるという事と合わせ、老父の物狂と再会を描く異色曲です。

知章 ともあきら

〈知章〉の作者は不明です。しかし、奈良県生駒(いこま)市の宝山寺(ほうざんじ)に、「応永三十四年2月15日(1427) 久次(ひさつぐ)(花押(かおう)) 金春大夫(だゆう)殿」の奥書(おくがき)がある久次署名本があり、世阿弥時代の作品であることが分かります。なお、久次は伝不明の人物です。宝山寺は世阿弥自筆能本を含む金春家旧伝文書を保管しているお寺です。〈知章〉は金春禅鳳(ぜんぽう)の『毛端私珍抄(もうたんしちんしょう)』に〈忠度(ただのり)〉、〈経政(つねまさ)〉と並び「いかにもいでたち花やかに」とあります。世阿弥の『風姿花伝(ふうしかでん)』第二物学条々(ものまねじょうじょう)・修羅(しゅら)には「源平(げんぺい)などの名のある人の事を、花鳥(かちょう)風月(フげつ)に作り寄せて、能よければ、何よりもまた面白し」とあります。例えば世阿弥作の忠度は和歌、敦盛は笛など武将でありながら風雅な面を持っています。しかし、知章にはそうした風雅な一面もなく、勇猛な武将としてのみ描かれています。また、世阿弥は『三道(さんどう)』で「平家の物語のままに書くべし」と書いています。しかし、世阿弥の修羅能で「平家のままに」能が作られることは稀で多くの脚色が施されています。それに対し、〈知章〉は『平家物語』巻九を出典とし、『平家物語』をそのまま使っている事が特色です。ところで、〈知章〉の構成をみると、シテが知章でありながら、前半は父の知盛(とももり)、後半が知章を中心に描かれ、やや焦点がぼやけた構成になっています。こうした描き方は、古作の可能性がある〈兼平(かねひら)〉が、主君の義仲(よしなか)について多く語る構成に類似しています。なお、「越鳥(えつテウ)南枝(なんし)」が連歌(れんが)の『源氏寄合(げんじよりあい)』を利用した世阿弥の修羅能と共通する手法である事が指摘されています(岩城賢太郎氏「修羅能と『源氏物語』のことば」『筑波大学平家部会論集』11)。〈知章〉は世阿弥周辺作の可能性がある曲ですが、このように世阿弥的な部分と非世阿弥的な部分が混在する特異な作品と言えます。

 ともえ

【巴①】現行曲には16曲の修羅物(しゅらもの)があります(〈俊成忠度(しゅんぜいただのり)〉は金春にナシ)。
世阿弥の『風姿花伝(ふうしかでん)第二物学条々(だいにものまねじょうじょう)』に「源平げんぺいなどの名のある人の事を、花鳥(かちょう)風月(ふげつ)に作り寄せて、能よければ、何よりもまた面白し。これ、ことに花やかなる所ありたし。(源氏や平家などの名高い武将の事績を、風雅な花鳥風月などと関連させて作ってあって、能の出来が良ければ、それはまた何よりも面白い。そうした能は、特に花やかな所があってほしいものだ)」(全集本『連歌論集・能楽論集・俳論集』)とあるように、世阿弥の修羅能では〈忠度(ただのり)〉の桜・和歌、〈敦盛(あつもり)・清経(きよつね)〉の笛(全集本該注)などが、それに該当します。『風姿花伝第二物学条々』で「女・老人・直面(ひためん)・物狂(ものぐるい)・法師・修羅・神・鬼・唐事(からごと)」の九体の物学ものまね論は、『至花道(しかどう)』で「二曲(にきょく)(舞と歌)三体(さんたい)論(老体(ろうたい)・女体(にょたい)・軍体(ぐんたい)」に整理され、修羅は軍体に統合されます。世阿弥の能作書『三道(さんどう)』には〈通盛(みちもり)(井阿弥(せいあみ)原作・世阿弥改作)・忠度・実盛(さねもり)・頼政(よりまさ)・清経・敦盛〉を模範曲に挙げ、世阿弥の芸談集『申楽談儀(さるがくだんぎ)』には〈八島(やしま)〉もあります。〈田村(たむら)〉は世阿弥周辺の作、〈兼平(かねひら)〉は『申楽談儀』にある「柴船(しばふね)の能」が古名の可能性があり、〈知章ともあきら〉は応永(おうえい)34年2月久次(ひさつぐ)能本があり、〈朝長(ともなが)〉は世阿弥の長男元雅(もとまさ)作と考えられ、〈箙(えびら)・経政(つねまさ)〉も元雅作の可能性があります。〈生田敦盛(いくたあつもり)〉は金春禅竹(ぜんちく)の孫の禅鳳(ぜんぽう)作、〈俊成忠度(しゅんぜいただのり)〉は内藤(ないとう)左衛門(さえもん)作です。修羅物は成立した時代・作者を特定できる曲が多いのですが、〈巴〉は作者不明、唯一の女武者、成立も相当下るという異色の曲です。〈愛寿(あいじゅ)〉など女性が戦う曲が番外曲に複数ありますが、〈巴〉だけが残ったというよりも、修羅物の流れから見ると、女武者の〈巴〉のような曲が後代に求められた、と言えるかもしれません。

【巴②】
〈巴〉の作者は不明です。〈巴〉は二番目物(修羅物)に分類されていますが、修羅物は作者が明らかな曲が多いのが特色です。例えば、〈通盛〉(みちもり)は井阿弥(せいあみ)原作・世阿弥改作です。〈忠度・実盛(さねもり)・頼政(よりまさ)・清経(きよつね)・敦盛(あつもり)・八島(やしま)〉は世阿弥作です。〈田村(たむら)〉は世阿弥周辺の作者、〈兼平(かねひら)〉は『申楽談儀』にある「柴船(しばふね)の能」が古名の可能性があり、〈知章(ともあきら)〉は応永(おうえい)34年2月久次(ひさつぐ)能本があり、〈朝長(ともなが)〉は世阿弥の息男元雅(もとまさ)作と考えられ、〈箙(えびら)・経政(つねまさ)〉も元雅作の可能性があるかもしれません。〈生田敦盛(いくたあつもり)〉は金春禅竹(ぜんちく)の孫の禅鳳(ぜんぽう)作、〈俊成忠度(しゅんぜいただのり)〉は内藤左衛門(ないとうさえもん)作です。          

 世阿弥の『風姿花伝』に「源平(げんぺい)などの名のある人の事を、花鳥風月(かちょうふげつ)に作り寄せて、能よければ、何よりもまた面白し」とあります。世阿弥の修羅能では〈忠度〉の桜・和歌、〈敦盛・清経〉の笛が、それに該当します。 こうした源平の武将をシテとし花鳥風月と関連させた世阿弥の風雅な修羅物に比べると、〈巴〉は女武者というシテの選択をはじめ世阿弥の考えとはかなり違う曲ということが分かります。

他に女性が闘う曲に〈正尊〉があります。〈正尊〉は観世長俊作ですが、その後半で静が長刀を持つ場面があります。〈正尊〉に関しては新たな指摘があるので紹介しましょう。表きよし氏が「〈正尊〉の子方について」(『銕仙(てっせん)』371号)で、現在子方が務める静が子方ではなくツレであつた事を指摘しています。また、伊海孝充氏『切合能の研究』(檜書店)では、徳川家宣(いえのぶ)時代に切合能が好まれた時代を背景に喜多流で静を演技に自由のきく子方に変え、それに伴い、後場には本来登場していなかったと考えられる静を合戦場面に加えて後場をさらに華やかにしようとした演出の意図があった、との指摘があります。

 

◇滋賀県大津市馬場1丁目、旧東海道に沿って義仲寺(ぎちゅうじ)という小さな寺があります。このあたり、古くは粟津ヶ原(あわづがはら)と言われていました。この寺に木曽義仲の墓、巴塚、そして松尾芭蕉(1644~1694)の墓があります。江戸時代中期までは木曽義仲を葬った小さな塚でしたが、周辺の美しい景観をこよなく愛した芭蕉が度々訪れ、のちに芭蕉が大阪で亡くなったとき、「骸からは木曽塚に送るべし」との遺志により義仲墓の横に葬られました。〔s.w〕

義仲寺

巴塚

義仲公墓

松尾芭蕉翁墓

朝長 ともなが

【朝長①】〈朝長〉のあらすじは「朝長ゆかりの僧が平治の乱後に自害した朝長を弔うため美濃の青墓へ行きます。そこで僧は青墓の宿の長者の女と出会います。女は乱後、落ちのびた源義朝一行を家に泊めたが、深手を負った次男の朝長が父たちの足手まといになると考え自害をしてしまった、と語ります。僧が長者の家で観音懺法(かんのんせんぽう)をしていると朝長の霊が現れ、死後も弔ってくれる長者に感謝しつつ、修羅の苦しみや朝長最期の様を語る」という内容です。これまでの研究(新潮日本古典集成『謡曲集・中』など)を踏まえ、〈朝長〉の特色を見て行きましょう。

 作者は世阿弥の息男・観世元雅の可能性が極めて高いことが明らかになっています。修羅物の中で『平家物語』を出典としない曲は〈朝長〉と〈田村〉のみで、かつ〈朝長〉は『平治物語』を出典とする唯一の曲です。〈朝長〉の構成は前シテが青墓の宿の長者で、後ジテが朝長と前後別人格なのが特色ですが、この形が本来か否か異論もあります。前場は「雑兵の手にかからんよりは」と乱後に自害した〈清経〉の影響が大きいことが指摘されています(集成本『謡曲集』)。修羅物で[語リ]がある曲は〈実盛・田村・知章・朝長・八島・頼政〉等です。この中で〈朝長〉のみ前シテの女が[語リ]をするのが特色です。しかも、前場は朝長の最期について語る[語リ]が中心で、前場には朝長の化身などが登場しない、というのも特色です。この点は〈藤戸・天鼓〉との影響関係がありそうです。後場で法要の音楽に引かれ朝長が登場するのは、〈天鼓〉で管絃講に引かれ後ジテが登場するのと同工です。また、後場は〈経政〉との関係も密接です。世阿弥の風雅な修羅物とは異質の大曲です。

 

【朝長②】「平治物語」から取材した唯一の修羅能です。作者は世阿弥の嫡男・観世元雅の可能性が極めて高いことが明らかになっています。平治の乱で敗れた源朝長の最期を知る女人がその有様を語り、朝長の亡霊も自らの最期を再現します。源義朝の嫡子が悪源太義平、次男が朝長、三男が頼朝、異母弟が義経です。

義朝の次男、16歳で自害した朝長の最期を脚色した能ですが、修羅能で前シテと後シテが別人なのは、この曲だけです。〈通盛・実盛〉とともに三修羅の一つで、修羅能の中でも超難曲とされています。前場の「語り」が聞きどころです。後場では終曲部分で、たたんだ扇を左手に持ち左膝に突き立てるところ、そして扇の要で腹をかき切る所作などが見どころです。

前場、観世流ではシテ(青墓の宿の長者)がツレ(侍女)・トモ(太刀持)を伴って登場しますが、金春流ではシテがツレ・トモを伴わずに登場します。

「平治物語」では、得心のうえで朝長は父義朝に首を打ち落とされますが、本曲ではそれを自害に作り直しています。世阿弥の風雅な修羅物とは異質の大曲です。上演時間1時間45分前後。〔s.w〕

鳥追舟 とりおいぶね

薩摩の国の日暮殿(ひぐらしどの)が訴訟のため都へ上り十年が過ぎていました。主人が不在なため残された妻子は、家人の左近尉に養われていました。そのため、妻の北の方と子の花若殿は、主家であるにもかかわらず、左近尉(さこノじょオ)に酷使されていました。ある日、左近尉は妻子に舟に乗り田を荒らす鳥を追い払えと命じます。妻子は家人に使われる我が身を嘆きつつも、舟に乗り鼓や鳴子を打ち鳴らして鳥を追い払います。そこへ訴訟を終え帰ってきた主人の日暮殿が舟に乗ってやってきます。いきさつを知った日暮殿は左近尉を成敗しようとしますが、北の方の説得を聞き入れ左近尉を許す、という内容です。

 作者は金剛弥五郎という伝えもありますが不明で、典拠も未詳です。上演が極めて稀な曲です。ワキの日暮殿とワキツレの左近尉とワキ方が活躍する曲で、そのためか対話劇のような構成です。曲名でもある鳥追舟の作リ物が印象的です。

〔2022.07.08 能楽研究家 後藤和也〕

 

な行

難波 なにわ

〈難波〉のあらすじから見てゆきましょう。「三熊野から都へ帰る朝臣たちが難波で梅の木陰を清める老人たちに会います。老人は「難波津に咲くやこの花…」の歌や、泰平の世のめでたさを語り、自分たちは王仁と梅の精であると自ら名乗り消えます。やがて王仁とこのはなさくや姫が現れ、二人は天下泰平の春を祝して舞を舞う」という内容です。

〈難波〉の作者は世阿弥です。古名は〈難波梅〉でした。〈難波〉には応永21年(1414)閏7月の奥書がある世阿弥自筆能本〈難波梅〉が現存しています。この能本は現存する最古の能本で、現在は観世宗家蔵です。この自筆本〈難波梅〉と現在の〈難波〉にはいくつかの違いがあります。曲の冒頭、現在は「山も霞みて浦の春…」と[次第]で始まり、次にワキの[名ノリ]となります。しかし、自筆本では[名ノリ]の後に[次第]と順序が逆になっています。[次第]の後に[名ノリ]となるのが一般的で、類型的な変更と言えます。

また、自筆本の後場の冒頭に現在は謡われていない待謡がありました。この省略が演出とも関連することが指摘されています(大場滋氏「能本『難波梅』雑考」など)。後ジテの舞は、現行観世流のみ神舞で、金春流はじめ他流は楽を舞います。

一般的に脇能で神舞の時は、①通常の中入リ→語りアイ→待謡となります。一方、楽の場合は、②来序の囃子で中入リ→末社アイ→待謡ナシとなります。自筆本は待謡がある①の形式で、②の形式の現行金春流と比べると変化があることが分かります。また、自筆本には前場のツレには「チコ 二人」、「稚児」すなわち子方の役指定もあり現在とは違っています。

なお、シテが神ではなく人間の王仁である〈難波〉を祝言能(脇能)として演じるようになったのは徳川綱吉の頃からです。

 ぬえ

〈鵺〉のあらすじから見てゆきましょう。「旅僧が摂津の芦屋に着き、洲崎の御堂に泊まります。そこへ怪しげな異形の者が現れ、自分は鵺の亡霊であると語り頼政の鵺退治の故事を語り消えます。僧が弔うと鵺の亡霊が現れ、鵺の最期の有様を語る」という内容です。

 世阿弥の音曲論書『五音』に〈鵺〉が掲出されており、世阿弥作が確実な曲です。下掛リの古謡本には、シテ登場段の一セイの後に、我が身を慨嘆するサシ・下ゲ歌・上ゲ歌がありました。現在は上掛リ・下掛リともに省略されていますが、省略前の形が世阿弥時代の原型で、古く下掛リでは原型と省略型とが併存していた時期もあったと考えられています。

 世阿弥は『風姿花伝』の中で、修羅物(〈鵺〉は構成や形式が修羅物に近いことが旧岩波『謡曲集』で指摘されています)について「『平家物語』のままに書くのがよい」と言っていますが、意外にも『平家物語』のままに書かれた曲は少ないです。その中にあって、〈実盛〉と〈鵺〉は『平家物語』のままに書かれた、むしろ例外的な曲です。〈実盛〉では自分が討たれた様を敵側を含め実盛が語り演じるのが特色です。これに似て〈鵺〉でも後ジテ(鵺)が「頼政、右の膝をついて、左の袖をひろげ…御剣をたまわり」と、鵺の姿で頼政が主上から御剣を頂くさまを演じるのは大胆な演出です。なお「右の膝をついて…」とありますが、こうした作法が実際にあったのかは不明です。ちなみに御剣は主上(近衛の院)から宇治左大臣藤原頼長を介して頼政に下賜されました。その際に、「郭公」の「音ずれ」があったので、左大臣と頼政の間で和歌のやりとりが起こりました。武人であると同時に歌人でもある頼政の面目躍如が、敗者の鵺と鮮やかに対比して描かれています。

〔2022.05.31 能楽研究家 後藤和也〕

 

野守 のもり

〈野守〉のあらすじは「山伏が大和国の春日野に着き、その地にある池について野守の老人に尋ねます。すると、老人は野守の鏡だと教え鏡の故事を語り、鬼神の持っていたまことの鏡を見せると告げ消えます。その夜、地獄の鬼神が現れ三界を映す鏡を山伏に見せ、大地を踏み鳴らし去って行く」という内容です。

〈野守〉は世阿弥の音曲伝書である『五音』に詞章(本文)が掲載されており、世阿弥作が確実な曲です。〈野守〉は春日野の水(たまり)について山伏が野守の老人に尋ねるところから話が展開して行きます。この水が「野守の影(姿)を映す」水鏡であり、さらに「はし鷹の野守の鏡得てしがな思い思わずよそながら見ん」が詠まれたのもこの水鏡であったと語ります。この和歌はもともとは『新古今和歌集』に詠まれた歌でしたが、帝が鷹狩をした際に鷹が行方不明になってしまい、野守に尋ねたところ、木にとまっていた鷹が水鏡に映っていたのを野守が教え鷹が見つかった時に詠んだ歌、と解釈されていました(『袖中抄』など)。その話が老人から語られます。その上で、老人は鬼神が持つまことの「野守の鏡」があると告げ塚の中へ消えます。実はこの老人こそ「野守の鏡」を持つ鬼神の化身で、後場に鏡を持って鬼神の姿で現れます。ただ、この鬼神は「鬼神に横道なし」と言うように害悪を及ぼす鬼ではないこと、ただ鬼が現れるのではなく、「野守の鏡」と鬼神がセットになっていることが特色がです。一曲を通して「野守の鏡」で一貫していますが、その鏡に複数のイメージを持たせているのが〈野守〉の特色と言えます。

〈野守〉は大和(現奈良県)の春日野を舞台とした曲です。大和猿楽発祥の地を鬼神が闊歩する〈野守〉は、往時の景色を彷彿させるような面白い曲です。

 
は行~ら行

羽衣 はごろも

【満願真如】キリに「満願真如の影となり、ご願円満国土成就」とあります。〈羽衣〉の謡本の語釈には「満願真如」について「誓願が総て叶い、万物本体に帰る吉相」と説明しています。この「満願真如」について日本古典文学大系『謡曲集・下』の〈羽衣〉補注に「諸流ともにこの文字をあて、マンガンシンニョと謡ってもいるが、これでは意味が分らないし、満願では後文の「御願円満」と重複することともなろう。江戸初期以前の写本には「まんくわつしんによ」「満月真如」とあてた場合が多く、それならば真如を示す満月の意となって適わしい。満月をマングヮン(「ン」は「ノム」筆者注)」と、謡っていたのが、江戸初期以降マンガンと謡い訛られ、文字も満願とあてられるに至ったものであろう」と、「満願」がもともとは「満月」であったことを指摘されています。能では「満月真如」ではなく「真如の月」と表現されることが普通で、〈三井寺・誓願寺・嵐山・船橋・鵺・班女・龍田、東岸居士・雪・水無瀬・夕顔(上記四曲金春流にナシ)〉など多くの曲に出てきます。「満月真如」という表現は〈羽衣〉だけで、能ではとても珍しい表現です。また、意外にも「満月」という語自体も〈松山鏡〉(金春流にナシ)に「満月の山を出で碧天を照らす」という用例が一つあるだけです。真如とは仏教語で「永久不変の真理」を意味し、「真如の月」は一般に「永久不変の真理が人々の迷いを破ることを、闇を照らす月に譬えたもの」とされます。したがって、キリの意味は「天女が、真理を表す満月の光とともに、地上を照らし、人々を救おうという仏の願いと誓いが、円満に行われ、国土が繁栄するように」という意味と解されます。

京都市 夕顔町にある石碑

半蔀 はしとみ

〈半蔀〉のあらすじから見ていきましょう。「京都紫野の僧が仏へ供えた花の供養を行っていると、そこに女が現れます。女は夕顔の花を捧げ五条辺りの者と語り消えます。僧がその五条辺りを訪ねると、半蔀を下ろした家から夕顔の霊が現れ、光源氏との昔を語り舞を舞う」という内容です。
〈半蔀〉は作者付(づけ)史料である『能本作者註文(ちゅうもん)』によれば、内藤藤左衛門の作です。本曲の最も古い演能記録は、天文十年(1541)1月12日本願寺松拍子能(『証如上人日記』)です。 
格子組みの裏に板を張った戸を蔀(しとみ)と言います。半蔀は上半分を金物で外側へつり上げるようにし、外の光を取り入れるように作られたものです。平安時代から住居や社寺で見られる建具の一つです。能では作リ物として舞台に置かれます。〈半蔀〉では人としての夕顔と同時に、花としての夕顔も描かれています。シテは夕顔の霊ですが、夕顔の花の精ともとれる所に、この曲の特色があります。
〈半蔀〉には立花を舞台上に出す、「立花」という小書(特殊演出)があります。ワキ僧の名ノリの中にも「立花供養」という語が出てくることからも、この小書演出のほうが本来の演出の可能性が高いと考えられています。
〈半蔀〉は『源氏物語』夕顔の巻に基づきつつ、夕顔と光源氏との恋物語を描いています。〈半蔀〉には同じく夕顔をシテとする姉妹曲〈夕顔〉があり(金春流にナシ)、世阿弥作の可能性がある曲です。能には『源氏物語』を出典とする曲として、〈半蔀・葵上・野宮・浮舟・玉葛・住吉詣・夕顔・落葉・須磨源氏(上記4曲金春流にナシ)〉があります。『源氏物語』の分量からすると、現行曲で全9曲というのは少ない印象です。

芭蕉 ばしょう     

〈芭蕉〉のあらすじから見てゆきましょう。「唐土楚国(もろこしそこく)の僧のもとに、仏縁を求める女がやって来ます。女はお経を聞き、草木でも成仏できることを喜び、実は芭蕉の精であると告げ消えます。その夜、芭蕉の精が現れ、世の無常を語りつつ舞を舞う」という内容です。

〈芭蕉〉の作者は金春禅竹です。作者付史料である『自家伝抄(じかでんしょう)』は禅竹作とし「芭蕉 観世又三郎所望」とあります。禅竹の孫にあたる金春禅鳳(ぜんぽう)の芸談集である『禅鳳雑談(ぜんぽうぞうたん)』には「芭蕉は禅竹(ぜんちく)若き時書き候(そオら)ひ(イ)て、観世へ遣(つか)は(ワ)され候(そオろ)ふ(オ)能にて候(そオろオ)」とあります。観世又三郎は第四世観世大夫・観世政盛(まさもり)です。禅竹は世阿弥の娘婿であり観世と金春は親子関係でした。そうした関係から、禅竹が政盛の依頼を受けて四十歳ころに〈芭蕉〉を書いて観世に送ったと推定されています(集成本『謡曲集』解題)。〈芭蕉〉という曲がどういう理由で書かれ、どのように金春から観世に渡ったのかが具体的にわかる、とても興味深い記録です。

〈芭蕉〉は内容的にかなり難しい印象を受ける曲です。前掲の解題にも指摘がありますが、〈芭蕉〉のモチーフになった中国の書『重刊湖海新聞夷堅続志』等により、場所が「唐土楚国」に設定されていることに伴い、多くの漢詩が引用されていることが挙げられます。また、当時の芭蕉のイメージである無常を表すだけでなく、天台本覚思想下の『法華経』薬草喩品(ゆほん)に基づく「草木成仏(そうもくじょうぶつ)」思想や、芭蕉というあるがままの姿を絶対真理とする「無相真如(むそうしんにょ)」を説くなど、思想という領域にまで踏み込んでいることが、〈芭蕉〉を難解と感じる理由でしょう。それは同時に、この曲の特色でもあり、作者である禅竹の幽玄(ゆうげん)観が示された、難曲ではありますが名曲である理由と言えます。

〔update 2023.02.08 能楽研究家後藤和也〕

初雪 はつゆき      

〈初雪〉は『能本作者註文(のうほんさくしゃちゅうもん)』などから、金春禅鳳(ぜんぽう)(金春禅竹(ぜんちく)の孫)の作品である事が判明しています。〈初雪〉にはいくつかの特色があります。岩波大系本『謡曲集(ようきょくしゅう)』にも指摘がありますが、まず、昔と今では配役に違いがあること、それに関連した子方の問題、鶏をシテとすること、配役が全て女性の唯一の曲であること、金春流のみで演じられていること等です。

宝山寺(ほうざんじ)にある古写本、無署名巻子本(むしょめいかんすぼん)の奥書(おくがき)には「…おさあい人の御(おん)ためと承候(うけたまわりそうろう)…」とあります。「おさあい」は「幼い」であり本来は少年用の能だったようです。現在は前ジテが神主の姫、後ジテが白鶏を演じます。しかし、本来は前ジテが神主の姫で、前ジテは中入リせずそのまま舞台に残り、子方が白鶏として現れる、という形でした。無署名巻子本にも「南無阿弥陀仏(なむあみだぶン)弥陀如来(みだにょらい)」の所に「爰(ここ)にておさなき人庭鳥(にわとり)をいたゞ(だ)きて出る」と注記があります。この注記により、古くから「鶏」を頭上に戴(いただ)いていたことも分かります。

ところで、禅鳳作が確実な曲は〈嵐山(あらしやま)・初雪(はつゆき)・一角仙人(いっかくせんにん)・生田敦盛(いくたあつもり)・東方朔(とうぼうさく)・富士山(ふじさん)(改作)・ 黒川(くろかわ)(番外曲)〉です。現行曲6曲のうち上記4曲で子方が関係する事から、既に指摘があるように、禅鳳には子方を使う何らかの理由があったようです。

なお、現行曲で「鶏」をシテとする曲は他に〈鶏竜田(にわとりたつた)(昭和36年に金春流で復曲試演)〉だけで、「鶏」の語が出る曲も〈卒都婆小町(そとばこまち)〉の「あわでぞ通う(かよオ)鶏の」と〈経政(つねまさ)〉の「鶏も心して夜遊(やイう)の別れとどめよ」だけで、「鶏」が能の素材となるのは珍しいことです。また、この曲自体も稀曲で上演が少ない曲です。

付言すれば、金春流のみで演じられている現行曲は〈鵜祭(うのまつり)・源太夫(げんだゆう)・佐保山(さおやま)・初雪(はつゆき)・御裳濯(みもすそ)・奥の細道(おくのほそみち)(高浜虚子(たかはまきょし)の新作能)〉の6曲です。

班女 はんじょ

◆【狂ふ】〈班女〉に限らず狂女物には、当然「狂ふ」という語がよく表われます。〈班女〉でも「いかに狂女なにとて今日は狂はぬぞ面白う狂ひ候(そオらえ)へ」「…たまたま心直(すぐ)なるを、狂へと仰(お)せある人びとこそ、風狂じたる秋の葉の、心もともに乱れ恋の、あら悲しや狂へとな仰せありさむらひそよ」とあります。現代語の感覚では「狂ふ」と聞くと「精神に障がいのある病気」を連想してしまいます。しかし、能で使われる「狂ふ」には、そうした意味合いはまずありません。

 世阿弥は「憑物(つきもの)」物狂(ものぐるい)よりも「思ひ故(ゆえ)の物狂」を重視し(風姿花伝)、『拾玉得花(しゅうぎょくとくか)』では「物狂になぞらへて、舞を舞い、歌を謡いて狂言すれば…是(これ)(また)なによりも面白き風姿也(なり)(物狂を口実にして、舞を舞い歌を歌って、通常とは違う芸を演ずると…これはまた、何よりも面白い芸となる」(伝書本文は岩波『世阿弥・禅竹』、訳は小学館『連歌論集・能楽論集・俳論集』を参照)とも述べています。このように「物狂」は芸能者といった意味合いでも使われています。したがって、「狂ふ」とは、恋人や子供との別離から一時的な興奮状態に陥り心が乱れることであり、さらに、その状態で舞などを舞うことをも意味しています。

 先に挙げた〈班女〉の訳は「班女よ、どうして今日はいつものように舞わないのだ。面白く心を乱した様で舞いなさい」、「今はたまたま少将を想って心を乱していない私に、『狂え』、すなわち、舞えとおっしゃる、あなたの心の方が私よりも、激しく吹く風のように乱れているのです。そのようなことを言われれば、私の心も風に吹かれる秋の葉のように、少将を想い乱れてしまう。ああ悲しいことよ、どうかそんなことは言わないで下さい」となります。

◆〈班女〉のあらすじから見てゆきましょう。「遊女花子が吉田少将と結びの扇を交わします。班女と呼ばれた花子は、扇に見入るばかりで勤めを果たさないため宿を追われます。少将が賀茂社へ参詣すると、舞を舞う女に会い扇から花子と分かり、二人は再会を遂げる」という内容です。

 〈班女〉は世阿弥の音曲伝書『五音・五音曲条々』などの引用から、世阿弥作が確実な曲です。また、世阿弥の芸談集『申楽談儀』には、〈班女〉の謡い方についての興味深い話がありますので、紹介しましょう(本文は岩波日本思想大系『世阿弥・禅竹』、注は『世阿弥・禅竹』と『日本の名著・世阿弥』を参照)。

「班女に、「(サシ)せめて閨(ねや)洩る月だにも、しばし枕に残らずして、又ひとり寝と成(なり)ぬるぞや」、大事の底性根有(そこしょうねあり)(ここには作曲上の根本的な意図がある)。「成ぬるぞや」、面白(おもしろき)かゝ(か)り也(なり)(面白くしみじみとした味わいがある)。何(いづれ)も同じことなれ共(ども)、此曲舞(くせまい)、いづくも底性根ゆるかせ成(なる)べからず(クセが曲の眼目だからゆるがせにしてはならない)。「(クセ前半)そなたの空よと」の「よ」をば、幼く、ちやと突くべし(あどけない感じで、軽く急に突き上げて謡うべきだ)。「(クセ中半)わが待つ人よりのをとづれ」の「を」文字、盗むべし(「を」の字は発音せず息で謡うのがよい。つまり、「の」を引いて謡い、その母音のオから直ちに「とづれ」へ続けて謡うのだ)。「(クセ後半)よしや思へ(エ)ば」、「も」を持つべし(長めに持って謡う)。「(クセ末尾)班女が閨」と移る所、深くても浅(あさく)ても悪(わろ)かるべし(移ってゆく所は、あまり感情を細やかに感情をこめて謡うのもいけないし、かといって感じが不足するのも悪い)」。作者の世阿弥による貴重な謡への言及です。

〔update 2020.10.04 能楽研究家後藤和也〕

桧垣 ひがき 

〈桧垣〉のあらすじから見てゆきましょう。「百歳ほどの老女が、肥後の岩戸山に住む僧のもとへ、仏に供える水を毎日汲んで来ます。僧が名前を訪ねると『後撰集』の一首を引き、その歌は自分が詠んだ歌であると語ります。老女は近くの白河のほとりに昔住んでいた白拍子(舞人)と語り弔いを求め消えます。僧が白河へ行くと桧の垣根で囲まれた庵から、女の霊が現れます。女は美しい白拍子でしたが、そのために男を惑わした罪により、熱鉄の桶で炎を汲み続けている地獄での苦しみを語ります。そして、昔、藤原興範の求めで舞った舞を僧に見せ、僧に救いを求める」という内容です。

〈桧垣〉の作者は世阿弥です。世阿弥の能作書『三道』(応永三十年)には女体の例として挙げられており、〈井筒・関寺小町・砧〉と言った名曲を生み出した晩年期よりも前の成立であることが分かります。〈桧垣〉は『後撰集』の「年ふればわが黒髪も白河のみづはぐむまで老いにけるかな」を主題歌に、『十訓抄』などに基づいて作られています。なお、室町時代の演能記録はなく早くから秘曲化していたようです。演出面では観世流でかつて「乱拍子」が伝えられていたことが注目されます。ただし、〈桧垣〉の「乱拍子」は江戸時代初め以前にはほとんど演じられなくなったようです。能の老女物は〈関寺小町・伯母捨・桧垣・鸚鵡小町(金春流にナシ)・卒都婆小町〉の五曲です。〈関寺小町・伯母捨・桧垣〉を特に三老女(金剛流のみ〈関寺小町・鸚鵡小町・卒都婆小町〉が三老女。宝生流では本曲は謡のみで能としては上演していません)と呼び、〈桧垣〉は〈関寺小町〉に次いで〈姨捨〉と並ぶ能の最奥義の曲の一つとされています。なお「三老女」の呼称は慶長頃の能伝書『八帖本花伝書』等に見られます。

光の素足 ひかりのすあし

【光の素足】2017年2月26日(日)第十一回山井綱雄之會で、観世流の中所宜夫師作の新作能〈光の素足〉が上演。シテが山井綱雄師、ツレが中所宜夫(なかしょのぶお)師という注目の異流共演でした。この曲は宮沢賢治原作の『光の素足』に基づいた曲です。あらすじは「かつて弟を失った少年・一郎が、その雪山での臨死体験で得た、異界のものが見えてしまう特殊能力のことで悩み、そこにあらわれた「光の素足」によって、人生の悟りを得て、前向きに生きてゆく」 (山井綱雄師ブログ「日々去来の花」より)というものです。また、クセには宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」がそのまま引用されています。今回の公演では金春流版、節附・監修を御宗家金春安明師が、金春流版、型附・演出を山井綱雄師が担当する野心的な企画です。

能は古典芸能と呼ばれていますが、現在の演目が作られた当時は当然、新作能でした。古い時代を振り返ってみましょう。世阿弥の能作書『三道』(1423年、世阿弥61歳)には、「新作の本体(模範)」として、〈弓八幡・高砂・養老・老松・融・蟻通・檜垣・忠度・実盛・頼政・清経・敦盛・恋重荷〉など29曲が挙げられています。〈自然居士〉等の原作者である観阿弥、先に引用した曲を含め約50曲の能を作った世阿弥、〈角田川〉などの名曲で知られる観世元雅、〈野宮・芭蕉〉等を作った金春禅竹など、世阿弥時代には史料から約百曲前後の曲の存在が確認できます。その後、〈嵐山〉などの金春禅鳳、〈舟弁慶〉などの観世信光、そして、新作期の最後の作者である〈正尊〉などの観世長俊と、代表的な作者はみな能楽師です。室町期までに作られた能は約7百曲、江戸時代の終わりまでで約2500曲です(大半は上演ナシ)。明治以降では約百曲の新作能が作られています。

百万 ひゃくまん

【狂う】狂女物には「狂う」という語がよく表われます。「狂う」と聞くと「精神病」を連想してしまいます。しかし、能で使われる「狂う」には、そうした意味合いはまずありません。世阿弥は「憑物(つきもの)」物狂よりも「思ひ故(ゆえ)の物狂」を重視し(『風姿花伝』第二物学条々(だいにものまねじょうじょう))、『拾玉(しゅうぎょく)得花(とくか)』では「物狂になぞらへて、舞を舞い、歌を謡いて狂言すれば…是(これ)(また)なによりも面白き風姿也(なり)」(物狂を口実にして、舞を舞い歌を歌って、通常とは違う芸を演ずると…これはまた、何よりも面白い芸となる。本文は岩波『世阿弥・禅竹』、訳は小学館『連歌論集・能楽論集・俳論集』を参照)と述べています。このように「物狂」は「芸能者」といった意味合いでも使われています。したがって、「狂う」とは、恋人や子供との別離から興奮状態に陥り「一時的に心が乱れる」ことであり、さらに、その状態で「舞などを舞うこと」をも意味しています。〈百万〉では「これかや春の物狂い」「これなる物狂いをよくよく見候(そオら)えば」「いかにこれなる狂女」「さてなに故(ゆえ)さように狂気とはなりたるぞ」「狂人ながらも子にもや会うと」とあります。いずれも、芸能者としての百万を踏まえつつ、「別れた子を想い心を乱す」と言った意味合いで「狂」が使われています。また、狂女物の〈班女〉に典型的な例があります。「たまたま心直(すぐ)なるを、狂へと仰(お)せある人びとこそ、風狂じたる秋の葉の、心もともに乱れ恋の、あら悲しや狂へとな仰せありさむらひそよ」。訳は「たまたま今、少将を想い心を乱していない私に『舞え』とおっしゃる、あなたの方が激しく吹く風のように、心が乱れているのです。そう言われれば私の心も風に吹かれる秋の葉のように少将を想い乱れる。ああ悲しい、どうか、そんなことは言わないで下さい」となります。

富士山 ふじさん

〈富士山〉のあらすじから紹介しましょう。「中国の官人が日本へ渡り富士の裾野へやって来ます。そこへ海人が現れます。官人は海人に、昔、中国の方士が不死の薬を求めに来たことを語ります。海人は富士のいわれを語り消えます。やがて、かくや姫と火の御子が現れ舞を舞い、官人に不老不死の薬を与え、富士を讃えます」。以上が〈富士山〉のあらすじです。

〈富士山〉の作者には世阿弥説もありますが不明です。ただし、世阿弥の音曲論書『五音』と芸談集『申楽談儀』に〈富士山〉の詞章の一部が引用されています。したがって、世阿弥時代に存在していた曲であることは確実です。現在、〈富士山〉は金春流と金剛流だけが現行曲としています。後場に二流の間で違いがあります。詞章の相違に加え演出面にも相違があります。金春流では後ジテが楽を舞い出端で登場します。一方、金剛流では後ジテが舞働を舞い、早笛で登場します。また、使用する面にも違いがある等、後場の印象は二流間でかなり違っています。

概して金春流は古い形を残していることが多いのですが、〈富士山〉の場合はやや異なっています。奈良県の宝山寺に金春禅鳳自筆の〈富士山〉が残されています。この自筆本の末尾には「延徳三年(1491)辛亥九月三日書之 此富士之能禅竹之作也 多武峯之為に後(?)をば俄に書な(?)をし候也 其憚少なからず…」とあります。一部虫損があり判読しづらい部分がありますが、元安(禅鳳)が38歳の時に〈富士山〉を改作したことが分かります。また、面白いことに禅鳳は〈富士山〉を禅竹の作と誤認しています。目的は多武峰八講猿楽で演じるためで、そこは新作披露の場でもあり、当時は改作も新作とみなされていました。その形が現在の金春流に受け継がれています。

富士太鼓 ふじだいこ

「富士が皇居での管弦の会で太鼓の役を望みますが、既に太鼓の役に決まっていた浅間に恨まれ討たれてしまいます。皇居に行き夫の死を知った妻は、太鼓を敵とみなし太鼓を打っては舞い舞っては狂い恨みを晴らす」という内容です。

〈富士太鼓〉の作者は未詳です。ただし、『自家伝抄』は金春禅竹作とし、金春禅鳳の『禅鳳雑談』には春日社法楽能での所演記事があり、宮王源四郎(この時は子方の役をツレ女が勤める。現行の子方のセリフは幼い子のセリフとしては難しい)の所演記事もあることから、金春流で新作または改作された可能性も考えられている曲です(集成本『謡曲集』解題)。

 ワキの名ノリで太鼓の役がもともと浅間に決まっていたところに富士が横やりをいれますが、結局はもとの浅間に落ち着きます。ところが浅間は富士を討ってしまいます。この設定はやや不自然で、例えば、もともと富士が太鼓の役に決まっていた所に浅間が横やりを入れ、役を取れなかった浅間が富士を恨んで討つ、という形の方が素直な気がします。ただし、この場合は妻の恨みは浅間のみに向かう通常の敵討ちものになってしまうでしょう。〈富士太鼓〉の設定であればそもそも揉め事の原因を作ったのは富士であるため、その後ろめたさもあって、妻の恨みの対象が人ではなく「太鼓」に向かうという極めて特異な曲になったのかもしれません。夫を亡くした妻の「思ひ故の物狂」と「富士が幽霊来たると見えて」とあるように「憑物故の物狂」の要素、「富士・浅間・煙(夫の死を暗示)」の語を含む和歌の効果的な利用と巧みな詞章、〈松風・井筒〉に見る女人男装の舞、物着による視覚的な変化など、テーマの重さとは裏腹に変化に富んだ、見ても聞いても面白い人気曲です。

〔2021.09.14 能楽研究家 後藤和也〕

 

藤戸 ふじと

〈藤戸〉の作者は不明です。しかし、伊藤正義氏(集成本『謡曲集・下』〈藤戸〉解題)が、〈天鼓(てんこ)〉と主題・語彙・表現・修辞などで密接に関連し、その中には〈春栄(しゅんねい)〉や〈角田川(すみだかわ)〉に通じる所もあるとし、観世元雅(かんぜもとまさ)作の可能性を指摘しています。〈藤戸〉はシテが前場と後場で別人格です。同様の構成の〈朝長(ともなが)〉は元雅作が確実とされる曲です。伊藤氏の指摘もありますが、こうした特異な構成の一致というのも作者を考える上で重要です。〈藤戸〉が母の、〈天鼓〉が父の子を亡くした悲嘆を描く前場(まえば)と、後場(のちば)で亡き子が登場するという、両曲の主題の共通点も古くから指摘されています。ただし、周知のように〈藤戸〉には〈天鼓〉にある舞事(まいごと)がありません。それだけ視覚よりも心理に訴えかける劇的な曲と言えそうです。ところで、シテが登場後に謡う「この島のお主(ぬし)のお着きと申すは真(まこと)か~せめては見参(みまい)らせん」までが、上掛(かみがか)リ(観世・宝生)にはありません。また、傍線部の後に車屋本(くるまやぼん)(書家の鳥養道晣(とりかいどうせつ)筆の謡本。金春(こんぱる)大夫(だゆう)系の謡本とは異質の本文を含む)では、「子 さむ(ン)(ぞオろオ)、お着(ツ)きと申(もオ)し候(そオろオ)」という現在では出ない子方の一句があります。この形ですと、「…跡をも弔(とむ)らひ(イ)、妻子(さいし)をも世に立ちょう(チョオ)ずるぞ…」というワキの言葉が生きて来ます。『童舞抄(とうぶしょう)』(下間少進(しもつましょうしん)筆の金春流型付(かたつけ))にも「昔はつれ(ツレ)を立る。近年はなし」とあります。なお、全集本『謡曲集(二)』には「車屋本の形は、それが、より具象的で切実なものとなる。おそらく車屋本の形が古型であろう」とあります。また、金春禅鳳(こんぱるぜんぽう)の『反古裏(ほごうら)の書(しょ)』で、後ジテについて「藤戸には大口着候(おオくちきそオろオ)か」とあり、『少進聞書(しょうしんききがき)』などは大口着用とする事が指摘されています。本曲は現在とは違うイメージで演じられていた可能性がある曲と言えそうです。

二人静 ふたりしずか 

流儀制度が確立している現在シテ方が他流のシテ方と競演することはまずありません。それだけに両流の御宗家のお許しを得ての山井綱雄師と豊島晃嗣師(金剛流)との異流競演(2017年9月2日)は画期的でした。この機会に金剛流の歴史を見てみましょう。

 不分明ながら鎌倉時代から法隆寺に勤仕し室町時代には春日興福寺に参勤した坂戸座が源流です。世阿弥の『申楽談儀』には「金剛は松・竹とて二人、鎌倉より上りし者なり」とあり、観阿弥と同時代の金剛権守(金剛座は彼の芸名に由来するらしい)の名も見えます。関東から来た能役者が、まず〈翁〉主体の坂戸座に所属し、やがて演能集団としての金剛座が坂戸座を継いだようです。なお、江戸時代に書かれた家元系図では坂戸孫太郎氏勝を流祖とし五世金剛三郎正明の時に金剛と改姓したとありますが確かなことは分かりません。歴代では中興の祖と呼ばれた七世氏正が傑出しており豪快な芸風で勝気な性格から金春と騒動を起こしたりしています。また、養子扱いで金剛大夫を継いだ金剛三郎は大阪の陣で豊臣方に加担したらしく一時失脚し金剛座を離れましたが、江戸時代に幕府から許され喜多七大夫として喜多流を創始しました。十五世又兵衛長頼は足早又兵衛の異名をとる名手です。二一世唯一は〈土蜘蛛〉で細く長い糸を数多く投げる現在の「千筋之伝」の創始者として有名。二三世右京で坂戸金剛家は断絶(昭和二二年没)しましたが、シテ方四流の家元の要望と推薦により、金剛巌(もともと分家に準ずる家柄で祖父の代まで野村姓だったが金剛姓を名乗ることを許されていた。野村金剛家と通称)が新宗家を継承しました。

〈二人静〉は世阿弥により淘汰された数少ない「憑き物」の能の一つで、シテとツレの相舞が見どころの人気曲です。

船橋 ふなばし

〈船橋〉のあらすじから見てゆきましょう。「山伏が旅の途中に上野の国(現群馬県)の佐野で二人の男女に出会い、橋を建立するための寄付を求められます。男は親に恋をさかれ命を落とした、という船橋にまつわる悲恋の話をし、実は自分たちがその当事者であると語り弔いを求めて消えます。やがて二人の男女の霊が現われ、二人が船橋から落ち命を落とした様を見せますが、山伏たちの弔いにより成仏する」という内容です。

〈船橋〉は世阿弥が改作した曲です。世阿弥の『申楽談儀』によれば、古作の能→田楽→世阿弥が改作という複数の変遷を経て成立しました。また、世阿弥の『三道』には鬼能に分類され模範曲とされています。

〈船橋〉は『万葉集』の「上野(かみつけ)の佐野の舟橋取り放し親は離(さ)くれど我は離(さか)るがへ」を原歌とし、「あづま路の佐野の船橋取りはなし親しさくればいもにあわぬかも」の形で中世に和歌説話とともに流布した歌をもとに作られた曲です。川を挟んだ両岸に恋仲の男女が住んでおり夜になると、舟を並べその上に板をのせて渡した船橋で会っていました。ところが、双方の親が二人の仲を良く思わず、船橋の板を外し会えないようにしたのですが、それに気づかず二人は川に落ち命を落としてしまいました。そのため、男は恋の妄執から「邪淫の悪鬼」となって苦しんでいましたが、山伏の弔いにより二人は救われます。

二人が命を落とす原因を作った親への思いには一切触れず、鬼能を元としながらも二人の悲恋に焦点をあてている所に〈船橋〉の特色があります。ただし、後場でシテのみが登場する、いわゆるシテ一人主義ではなくツレの女も登場する所に古い能の面影を感じます。古くはツレが今よりも重きをなした演出であったのではという(小田幸子氏「作品研究・船橋」)指摘があります。

〔update 2020.09.10 能楽研究家後藤和也〕

船弁慶 ふなべんけい

本曲は風流能(ふりゅうのう)の要素が強い曲の一つです。風流能とは歌舞の美しさ・面白さ・華やかさを見せる、ショー・スペクタクル性の強い曲趣を指します。観世信光(かんぜのぶみつ)の〈玉井(たまのい)〉・観世長俊(かんぜながとし)の〈輪蔵(りんぞう)〉(ともに金春流にナシ)、 金春禅鳳(こんぱるぜんぽう)の〈嵐山(あらしやま)〉などが風流能の代表曲です。前場での静御前(しずかごぜん)(前ジテ)による義経(よしつね)との別離の舞、船上への場面転換の鮮やかさ、囃子(はやし)による嵐の描写、また、船頭役のアイ、弁慶(べんけい)役のワキの活躍、さらに、前ジテの静御前とは全く逆の平知盛(たいらのとももり)を、後ジテとして同じ演者が演じ分けるなど、非常に変化に富む面白い曲で、昔から現在に至るまで屈指の人気曲です。

〈船弁慶〉の特色の一つに構成が挙げられます。通常、能の作品は大きく現在能と夢幻能(むげんのう)に分類されます。しかし、〈船弁慶〉の前場は現在能形式、後場は平知盛の霊が登場する夢幻能形式です。そのため、岩波日本古典文学大系『謡曲集』・下、前付の「能柄(のうがら)」でも「現在=夢幻能」という分類がなされている珍しい構成の曲です。補足ですが、現在能とは登場人物が全て現実の人間で現実の時間の流れに沿って筋が展開する曲です。それに対し、夢幻能は霊体(霊的な存在)の人物をシテとする曲を指します。シテが過去を回想して語る形式を取ることが多いです。〈船弁慶〉の作者は観世信光(かんぜのぶみつ)(大鼓方(おおつづみかた))です。表章(おもてあきら)氏の「観世小次郎信光の生年(しょうねん)再検」等(『観世流史参究(さんきゅう)』檜(ひのき)書店、所収)で、これまでの永享(えいきょう)7年(1435)生年説が否定され、生年は諸史料の分析から宝徳(ほうとく)2(1450)年が正しいこと、信光がシテやワキを演じていないこと、〈安宅(あたか)〉信光作説が生年のズレにより否定されることになる等、信光の経歴が大きく書き直されることになりました。

ま行

枕慈童 まくらじどう

〈枕慈童〉の作者は不明です。この曲にも大きな変化がありました。戦国時代に本曲と思われる記録もありますが、江戸時代に入り、書上(かきあげ)(上演可能な曲を幕府に提出した曲目一覧)には、宝生流で享保(きょうほう)2年(1717)以後、金剛流・喜多流で天明3年(1783)以後に登場し、観世流では明治初期に新加、金春流は昭和14年の新加です。ただし、現存する古謡本の最善本は吉川家(きっかわけ)旧蔵車屋謡本(金春喜勝(よしかつ)の弟子で書家の鳥養道晣(とりかいどうせつ)が書写・改訂を加えた謡本で金春大夫(だゆう)系とは系統の異なる謡本)です。この謡本によれば、現在は半能形式(後場(のちば)だけを上演する形式)ですが、前場(まえば)がある完曲の形式です。穆王(ぼくおう)に可愛がられていた慈童という名の少年が、誤って穆王の枕をまたいだため、臣下の進言により流罪(るざい)になったことが語られます。また、後場には現在の[楽(がく)]の前にクリ・サシ・クセがあり、法華経の二句の偈(げ)(仏徳の讃美や仏理を述べた詩句)の由来が語られていました。

 ところで、慈童が枕が原因で流罪になったこと、穆王に二句の偈を授けられたこと、その偈を菊の葉に書きつけた所、その葉から滴る露が霊薬となり、慈童が不老不死の仙人となったことが、『太平記(たいへいき)』巻十三「龍馬進奏(りゅうめしんそう)の事」にあります。この慈童説話が、天台宗系の『天台方御即位法』等に基づくことが、伊藤正義氏の「慈童説話考」(『国語国文』昭和55年11月)と阿部泰郎氏の「慈童説話の形成」(同誌、昭和59年8・9月)により解明されています。半能形式は能好きの五代将軍綱吉(つなよし)の「寿命長遠(ちょうおん)」を祈念し、菊水(酒)の「めでたさ」を眼目(がんもく)とするのが本曲(竹本幹夫氏・作品研究「菊慈童(きくどう)」、『観世』昭和60年9月)と言えます。なお、「枕」に偈を書き添え穆王から授かったという話は出典にはなく、本曲作者の創作です。

松風 まつかぜ

あらすじから見てゆきましょう。「旅僧が須磨の浦で、二人の海女が住む塩屋に泊まります。僧が在原行平の話をすると、実は昔、須磨に流された行平に仕えていた松風・村雨の霊と名乗ります。松風

は行平の形見の装束を身に着け舞を舞う」という内容です。 

 〈松風〉は観阿弥原作・世阿弥改作とされてきました。世阿弥の能作書『三道』に「松風村雨、昔、汐汲(しおくみ)也」とあります。世阿弥の音曲伝書『五音』には、田楽能・喜阿弥の「汐汲」の一節「ワレ汐ヲ弄(ろう)スル身ニアラズハ」が引かれており、この「汐汲」が同一曲であれば、田楽能がもとになったと考えられます。ただし、この一節は現在の〈松風〉にはありません。また、『五音』には「心ヅクシノ秋風ニ」を掲出し〈松風〉を「亡父曲」(観阿弥)としていますが、〈松風〉と観阿弥との関係を示す史料はこれだけです。これらの事実から、〈松風〉の成立は単純ではなく、現在の〈松風〉に至るまで喜阿弥や観阿弥の影響があったのか、あったとしても限定的だったか、または「まったくの新作」(香西精氏『能謡新考』)だったなど諸説がある状態ですが、世阿弥の関与は間違いありません。

 なお、〈松風〉の舞についてシテが芸能者でなく詞章に舞を促す言葉もないことから、本来〈松風〉には舞がなかったとする説(三宅晶子氏「『三道』期の世阿弥と〈松風〉の舞」)と、芸能者ではない普通の女性が詞章の上で舞うことの理由説明抜きで舞うところに世阿弥の新工夫があり、〈松風〉がその最初とする(山中玲子氏「女体能における世阿弥風の確立」)二説があり、〈松風〉にはもともと舞があったのかなかったのか興味が惹かれます。

〈松風〉は昔から人気曲で「熊野松風に米の飯」と言われ、辞書的には「米の飯のように誰からも好まれる名曲」と解されています。表章氏によれば、この言葉は大鼓方石井流11世・石井一斎の言葉で原形は「熊野松風米の飯」でした。「熊野・松風」は「米の飯」、すなわち、「熊野と松風をすれば観客がたくさん見に来てくれるから生活には困らない」という能楽師側からの言葉でした。それがいつしか「熊野松風米の飯」と形と意味を変え世の中に広まりました。

〔update 2020.10.04 能楽研究家後藤和也〕

通盛 みちもり

〈通盛〉は上演が稀な曲なので、あらすじから見てゆきましょう。「阿波の鳴門で僧が平家の弔いをしていると、舟に乗った老漁師夫婦が現れます。彼らは平通盛夫婦の霊で、妻の小宰相局(こざいしょうのつぼね)の入水の様を語り消えます。僧が弔いをしていると通盛夫婦の霊が現れ、一の谷合戦前の夫婦の語らい、通盛の出陣から討ち死にまでの様を語りますが、僧の弔いにより成仏する」という内容です。

 〈通盛〉の作者は井阿弥(せいあみ)原作・世阿弥改作です。井阿弥は室町前期の能役者・能作者です。世阿弥の芸談集『申楽談儀(さるがくだんぎ)』には井阿弥の曲として「静(吉野静の原曲か)・通盛・丹後物狂(番外曲) 以上、井阿作」とあり、同所の記述から〈守屋(もりや)(番外曲)〉も井阿弥作の可能性があります。

世阿弥の修羅能(敦盛・清経・実盛・忠度・八島・頼政〉の中では、〈通盛〉だけが古作の改作です。世阿弥の修羅能の中では早い時期に出来た曲かもしれません。

〈通盛〉の典拠は『平家物語』です。ただ、能では武将としての通盛の合戦の様を描くというよりも、夫婦の情愛に重点が置かれています。世阿弥は『風姿花伝』第二物学条々で「修羅」について「源平などの名のある人の事を、花鳥風月に作り寄せて、能よければ、なによりもまた面白し」と言っています。〈敦盛〉の笛や〈忠度〉の和歌がその好例で、修羅能と風雅なものを結びつけることで、世阿弥は風雅な修羅能を開拓したと言えます。〈通盛〉では夫婦の情愛を描くことで情趣深い修羅能が出来たと言えます。

『申楽談儀』には「言葉多きを、切り除(の)け切り除けして能になす」と改作の過程を述べています。夫婦の情愛が十分描かれているのに対し、合戦の描写が少ないことを考えると、原作では今よりも合戦の描写が多かったのかもしれません。

〔update 2018.07.27〕

御裳濯 みもすそ

〈御裳濯〉のあらすじから見てゆきましょう。「当今に仕える臣下が伊勢神宮を参詣後、二見(ふたみ)の浦へ行きます。そこへ神田に水を引き入れている老人と男に会います。臣下が川の謂れを老人に尋ねると、神鏡を戴いた倭姫の尊(やまとひめのみこと)が諸国を巡り、この地へやって来た時に裳の裾の汚れを川の水で濯いだことから、御裳濯川と名づけられたと語ります。その時、倭姫の尊が田を作っていた翁に「伊勢神宮の神が鎮座するのにふさわしい所はありますか」と尋ねます。翁が道案内をした所がいま伊勢神宮がある所なのです、と答え、その翁が今の興玉の神(おきだまのしん)であると語ります。また、老人は神が瀬と神風の謂れ、伊勢神宮の謂れを語り、自分が興玉の神であると告げ消えます。するとその夜、臣下が旅寝をしていると、興玉の神が現れ舞を舞い泰平の御代(みよ)を祝福する」という内容です。

 作者は世阿弥の可能性も指摘されていますが未詳です。出典は『倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)』と『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』ですが、『謡曲大観』にあるように『倭姫命世紀』のほうが重視されています。御裳濯川は現在の五十鈴(いすず)川です。また、興玉の神は猿田彦命(さるたひこのみこと)〔天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫を日本へ導いた神〕の別名です。

 世阿弥が金春禅竹に相伝したとされる『能本三十五番目録』が本曲の初出であり、世阿弥時代に成立していたのは確実です。

 なお、〈御裳濯〉は金春流にしかない曲で、金春流でも上演が極めて少ない稀曲です。見どころは後場の神舞ですが、脇能(神能)で神舞を舞う曲が金春流では〈高砂・弓八幡・養老・御裳濯・佐保山(真ノ序ノ舞ニモ)〉の五曲と意外に少ない印象です。

 強引なこじつけですが、〈御裳濯〉に「嘉辰令月」という語があります。他には〈春栄〉にありますが、新元号・令和の出典となった『万葉集』の「初春の令月にして気淑(よ)く和(やわら)ぎ…」ではなく、二曲とも『和漢朗詠集』からの引用です。また、〈御裳濯〉のキリには「白和幣(しらにぎて)・青和幣(あおにぎて)」という語があります。この「和幣(にぎて)」とは神の心を和(やわら)げるための料(捧物)の意味です。現在、神官がお祓いをする時に使う幣(ぬさ)のイメージです。白和幣は楮の木の皮の繊維で織った白い和幣、青和幣は麻で作った和幣で少し青みがかっています。「嘉辰令月」の「令」と「白和幣・青和幣」の「和」と合わせると、謡曲版「令和」が出来ますが、当然のことながら蛇足です。しかし、本曲は令和最初の正月を迎えるのにふさわしい、とてもめでたい曲です。

〔update 2020.01.24〕

三輪 みわ

【三輪】「玄賓僧都(げんぴんそうず)に樒(しきみ)と水を供える女が衣を求め、三輪山の二本杉へ来るようにと告げ消えます。僧都が訪ねると神詠が記された衣が杉に掛かっています。僧都が祈念すると三輪明神が現れ舞を舞う」という内容です。

〈三輪〉の作者は不明です。『古事記・無名抄・江談抄』などを典拠に、神道の清らかさを背景とした神婚説話・天岩戸説話が描かれます。前場は三輪山の伝説を語るクセが中心になります。後場は三輪明神による舞が見どころです。〈三輪〉は各流を通して小書(特殊演出)が多いのが特色です。2021年12月5日(日)の金春円満井会特別公演では「三光」という小書で上演(シテ金春穂高師)。「三光」は重い習い物で第七十九世御宗家・金春信高師により復曲されました。神楽の途中からイロエ風の笛に変わると、シテが御幣を上げるようにして、月・星・日の三光を拝するように上空を見上げます。また、天照大神の岩戸隠れの型を揚幕を使って巧みに描く大胆な型があり見どころです。終曲部は緩急もつき神威がより強調された演出となっています。      

金春月報2021年12月号 能の表現―〈安宅・三輪〉能楽研究家後藤和也

〔update 2021.12.04〕

六浦 むつら

「僧が六浦の称名寺(しょうみょうじ)で一本だけ紅葉しない楓(かえで)を見つけます。そこに里の女が現れ、昔冷泉為相(れいぜいためすけ)がこの楓を歌に詠んで以来、紅葉(こうよう)するのを止(や)めたと教え、楓の精であると告げ消えます。やがて、精が現れ四季の移ろいを語り舞を舞う」というのがあらすじです。

〈六浦〉の作者は不明です。金春座系の作者付(づけ)『自家伝抄(じかでんしょう)』(1514年までには成立)に佐阿弥(さあみ)とある事から、それ以前の成立であることが分かります。室町時代の演能記録はなく、唯一、金春禅鳳の『禅鳳雑談(ぜんぽうぞうたん)』に〈六浦〉を演じた記事が見えます。佐阿弥作とは決め難く、金春系の曲であることが指摘(西野春雄氏、作品研究「六浦」『観世』昭和46年11月)されています。〈六浦〉は「いかにしてこの一本(ヒトモト)にしぐれけん山にさきだつ庭のもみぢ葉」(どうしてこの木にだけ他の木より早く時雨(しぐれ)が降りかかったのでしょうか。それは他の木より先に紅葉していたからです)という、冷泉為相の『藤谷集(とうこくしゅう)』にある歌に基づき話が展開します。ただし、この歌以外は特に典拠はなく、作者の創作による、いわゆる「作り能」です。面白いのは、この歌の内容から楓が紅葉するのを止めてしまったのではなく、「功(こう)なり名とげて身しりぞくはこれ天の道なり」(歌に詠まれる名誉を得た以上、身を引くのが正しい道なのです)という言葉を信じて、それ以降紅葉しなくなったとしている事です。

ところで、ワキ僧も「古(フ)りはつるこの一本(ヒトモト)の跡を見て袖の時雨ぞ山に先だつ」(今お話されたこの楓の古木を見ると涙で袖が濡れてしまいます。山に時雨が降る前なのに、私の袖にはまるで時雨が降ったかのようです)という 手向(たむ)けの歌を詠んでいます。この歌は典拠が不明です。「作り能」にふさわしく、〈六浦〉作者の創作の可能性もある、なかなか上手(うま)い歌です。

室君 むろぎみ

〈室君〉のあらすじから見てゆきましょう。「播州(現・兵庫県)室の明神の神職が、神事のため室君(遊女)たちを舟に乗せ、囃子物をしながら神前へ来るよう命じます。やがて室君たちが舟に棹をさして現れ、謡い囃して舞を舞います。すると天から韋提希夫人(いだいけぶにん)も現れ舞を舞う」という内容です。

 〈室君〉の作者は不明です。ただし、世阿弥が金春禅竹に伝えたとされる「能本三十五番目録」に「竿ノ歌」という曲があり、それが〈室君〉である可能性が高いことが指摘(西野春雄氏「世阿弥晩年の能」)されています。

 〈室君〉は『撰集抄』(西行法師に仮託された中世の仏教説話集)などを典拠にしています。本曲の特色はツレ(室君)が主役級に活躍することです。シテはツレの舞の後に、舞を舞いますが、シテの謡が全くない極めて珍しい曲です。他には金春流以外では現行曲である〈羅生門〉のシテが一句の謡もない曲です。また、金剛流のみ演じている〈現在鵺〉ではシテの謡が一句のみです。〈現在鵺〉は作者不明ですが、〈羅生門〉は観世信光の作です。ツレが活躍する〈室君〉と違い、〈羅生門・現在鵺〉はワキが活躍する曲であることが特色です。シテの活躍する部分が少ないこともあり、〈室君〉の上演機会は極めて稀です。

 シテの韋提希夫人はインドの頻婆沙羅王の后で阿闍世太子の母にあたる人です。覚一本『平家物語』に「遂に彼の人は、竜女が正覚の跡を追ひ、韋提希夫人の如くに、皆往生の素懐を遂げけるとぞ聞えし」とあり、中世においては女人往生の嚆矢と捉えられていたことが指摘(田中貴子氏「作品研究・室君」)されています。なお、韋提希夫人が登場する曲はこの〈室君〉だけです。

〔update2020.05.18 能楽研究家後藤和也〕

 

望月 もちづき

〈望月〉のあらすじから見てゆきましょう。同郷の望月秋長に殺害された安田荘司友治の妻と子の花若が、故郷信濃を旅立ち、昔の家来小沢刑部友房が宿主である宿屋に泊まり、一同は偶然の再会を喜び合います。そこへ敵の望月秋長も都から信濃へ向かう途中、この宿に泊まります。仇を討つこの好機に、妻は盲人のフリをしてクセを、花若は稚児に扮し鞨鼓と、各人が芸を見せ望月に近づこうとします。シテの友房は望月の様子をうかがいながら、獅子舞を舞い、すきを見つけて花若と共に望月を討つ、という筋立てです。

とても劇的な構成を持つ作品で、物語の展開も分かりやすく、とても面白い曲です。劇的な展開の能は詞(会話の部分)が多くなる傾向があります。例えば、〈自然居士〉などの劇的な能も会話体が多いです。中でも〈望月〉は謡の部分が少なく、特にシテの謡が極端に少ないという、非常に大胆で珍しい曲です。会話が多い曲の場合、上掛リ(観世流・宝生流)と下掛リ(金春流・金剛流・喜多流)の間で、言葉の異同が多いのが通例です。〈望月〉でも上掛リと下掛リの間での言葉の異同が多いです。前シテの名ノリなどを見ると、下掛リのほうが詳しく述べられています。望月を歓待するフリをして仇を討つ機会を狙うわけですから、緊張感のある場面展開が続きます。その場面展開では橋掛リを含め、能舞台を有効に活用しながら進行してゆきます。

〈望月〉の特色はクセ・鞨鼓・獅子舞など、中世に親しまれた芸能を取り入れた芸尽くしにあります。〈望月〉の作者として日吉佐阿弥という伝えもありますが、よく分かってはいません。また、世阿弥の能作論書である『三道』に記されている仇討能〈盲打〉が〈望月〉の原形ではないか、という説もあります。

◆あらすじから見てゆきましょう。「殺害された安田荘司友治の妻と子の花若が、昔の家来小沢刑部友房が宿主である甲(かぶと)屋に泊まります。そこへ敵(かたき)の望月秋長が宿泊し、妻は盲人に花若は稚児に扮し友房と共に望月を歓待し鞨鼓(かっこ)や獅子舞を見せ隙を伺い望月を討つ」という内容です。

 〈望月〉の舞台となる「近江国守山の宿の甲屋」の「甲屋」については、正しくは「篼屋(はたごや・宿屋の意)」だったのを、似た文字の「兜(かぶと)」と誤写し、さらに「甲屋」に書き換えられた誤伝であることが指摘されています(市村宏氏「『望月』の『甲屋』は『篼屋』の誤なるべきこと」)。耳で謡を覚えていたため、発音は正しいが謡本に宛てる漢字が不明になることはありますが、「ハタゴヤ」が「カブトヤ」に変化するとは想定し難く、竹本幹夫氏が「『望月』メモ」で指摘されているように、〈望月〉の伝承過程に断絶があったことを示しているものと考えられています。

 また、同稿には作者付史料『自家伝抄』に〈望月〉の作者が「佐阿弥」とあることから、「近江猿楽系の能かとの想像もわく」とされ、田口和夫氏も「作品研究『望月』」で、「近江国守山の宿」の場面設定も近江猿楽の中で成立したからと考えれば納得がゆくであろう、と指摘されています。表章氏の「能〈石橋〉の歴史的研究」や竹本氏・田口氏稿には享保六年書上の『観世大夫書上』が引かれ、その史料から、もともと〈望月〉には獅子舞がなく越前猿楽での後補であることが記されています。田口氏稿に従いまとめると、近江猿楽の佐阿弥が〈放下僧〉にならい獅子舞のない仇討物(子方ではなくシテが鞨鼓を舞いその後に仇を討つ)の〈望月〉を作り、越前猿楽で獅子舞が後補され、その後、大和猿楽に入ったようです。〔2021.01.16 能楽研究家後藤和也〕

 

紅葉狩 もみじがり

〈紅葉狩〉の作者は観世信光(のぶみつ)です。信光は第三代観世大夫(だゆう)・音阿弥(おんあみ)の七男です。大鼓が本業でしたが、太鼓役者としても活躍しました。また、能作者としても約30曲の能を作っています。現行曲では〈胡蝶(こちょう)・張良(ちょうりょう)・舟弁慶(ふなべんけい)・紅葉狩・遊行柳(ゆぎょうやなぎ)、大蛇(おろち)・九世戸(くせのと)・皇帝(こうてい)・玉井(たまのい)・吉野天人(よしのてんにん)・羅生門(らしょうもん)・龍虎(りょうこ)(以上7曲金春流にナシ)〉などを残し、〈道成寺(どうじょうじ)〉の原作である〈鐘巻(かねまき)〉の作者とも言われています。信光の作品は金春流の演目にない曲が目立ちます。集成本『謡曲集』解題によれば、金春禅鳳(ぜんぽう)の芸談集『禅鳳(ぜんぽう)雑談(ぞうたん)』に「余五(よご)将軍(紅葉狩の古名)、張良、あまりに鬼、龍をこなしすごし候(そうら)(い)て、沁(し)まず候(そうろう)なり」という激しい所作で余情に欠けることへの批判には禅鳳の信光への対抗意識があるらしいとの指摘があります。なお、室町期の金春流では〈紅葉狩〉を演目に加えていた形跡がありません。

ところで、表章氏により、信光の生まれた年が従来の説より15年遅い、宝徳2年(1450)に誕生していたことが明らかになりました(『観世流史参究』檜書店)。その結果、〈安宅〉信光説も否定されることになりました(宝徳2年生まれだと〈安宅〉を作った年齢が16歳になり、その歳で〈安宅〉のような曲を作れるとは想定し難いため)。信光の作風は一般に華麗な装束と歌舞、大がかりな作リ物、登場人物が多いこと、ショー性、スペクタクル性が強いこと、ワキが活躍する劇的な展開の曲が多いことなどが指摘されています。〈紅葉狩〉も上記の指摘に合致する部分が多い信光の典型的な作風の曲です。加えて筋の展開に密接に関連し武内の神(しん)という固有名詞を持つ末社神(しん)としての設定は、末社間(あい)の最初の例で信光の創始と考えられることが岩崎雅彦氏(「末社アイ考」国学院雑誌)により指摘されています。

盛久 もりひさ

〈盛久〉の作者は世阿弥の『五音』の記述から、世阿弥の息子観世元雅です。元雅は永享4年(1432)に早世しています。生年未詳ながら、応永7年(1400)頃、享年は33歳位と推定されています(『能楽大事典』筑摩書房)。

〈盛久〉には世阿弥自筆能本が現存し、奥書には「応永30年8月12日・世書」とあります。先述の生年の推定に基づけば、元雅が23歳ころ、20代前半で〈盛久〉ほどの曲を作っていた、という事になります。

〈盛久〉のあらすじは「平家方の盛久が捕らえられ土屋三郎により護送される途中、盛久は信仰する清水観音を拝み、やがて処刑される鎌倉へ到着します。処刑前、盛久が観音経を唱えると、刑吏の刀が折れるという奇跡が起こります。頼朝の酒宴に呼ばれた盛久は、観音を願う力による奇跡という事で頼朝から許され、舞を舞い退出する」という内容です。

〈盛久〉は世阿弥自筆能本でも、シテの問答から始まる大胆な構成になっています。観世・金春はこの形ですが、他流は名ノリで始まる形に変えられています。

また、処刑前に盛久が「清水の方はそなたぞと、“西に向いて観音の”、み名を唱えて待ちければ」という言葉の“”部は、自筆本の「南」を世阿弥が「西」に直したものです。典拠とされる長門本『平家物語』にも「南」の記述が見えます。「南」には「清水の方」と同時に、観世音菩薩の住む、あるいは降り立つ補陀落山があるとされています。観音経では「南」は重要な方角なのです。世阿弥による「西」への改変には疑問が残ります。

なお、サシ「夢中に道あって塵埃をへだつ」が、唐代の高僧洞山の「無中有路隔塵埃」に基づくことが指摘されています(香西精「世阿弥の禅的教養」)。

や行~ら行

八島 やしま

〈八島〉は世阿弥作の修羅能です。『三道(さんどう)』(応永30年成立)という能の作り方を書いた世阿弥伝書には「通盛(みちもり)・薩摩守(さつまのかみ)(忠度(ただのり))・実盛(さねもり)・頼政(よりまさ)・清経(きよつね)・敦盛(あつもり)」を修羅能(しゅらのう)の模範曲として挙げていますが、〈八島〉はなく、永享二年成立の『申楽談義(さるがくだんぎ)』に「道盛(みちもり)・忠度・よし常(つね)(八島)、三番、修羅がかりにはよき能也(なり)」として現れます。 ところで、祝言(しゅうげん)をテーマとした脇能は世阿弥が整備開拓した分野であり、特に前場でツレを出しても後場ではツレを出さない形がその完成型(高砂(たかさご)・弓八幡(ゆみやわた))とされています(新潮日本古典集成『謡曲集・中』〈高砂〉解題参照)。世阿弥の夢幻能(むげんのう)を考える際、焦点がシテ一人に絞られるというのは重要な要素と言えます。脚本面に限定すれば、脇能の流れからすると、ツレの比重が低くなるように思えるのですが、先に挙げた修羅能の曲を見ると個性的なツレが存在することに気付きます。〈通盛〉は修羅能ではありますが夫婦の情愛をテーマとし、妻は後ツレとして後場にも登場し別離の場面等で存在感を出しています。〈清経〉も夫婦の情愛をテーマとしていますが、前半はツレの妻が中心で、清経も妻の夢枕に現れるという設定のため、大変重要な役になっています。また、〈敦盛〉のツレは前場のみに登場する里の男なのですが、前ジテが敦盛の化身(けしん)である里の男であるのに対し、このツレは化身ではない里の男であり不思議な存在です。さて、〈八島〉では金春流と喜多流で見られる特徴的なツレの役があります。通常中入(なかい)りする前ツレが中入りせず後場にも残り、しかも後場では謡もあります。室町末期にはこうした形が確認出来ます。このことから、〈敦盛〉と逆に〈八島〉ではツレが化身であること、シテ一人の語リよりも掛(か)ケ合(あい)の形で劇的効果が出せていると言えそうです。

山姥 やまんば

〈山姥〉の作者は世阿弥です。世阿弥の芸談集である『申楽談儀』には「上の下知にて、実盛・山姥を当御前にてせられしなり」という、世阿弥が〈山姥〉を舞った時の記事があります。〈山姥〉は世阿弥の頃から各時代を通して、上演頻度の高い人気曲です。 本曲の特色は集成本〈山姥〉の解題に指摘があるように、高名な女曲舞(くせまい)(ツレ)に曲舞を歌わせ、真の山姥(シテ)が移り舞を舞う、という所にあります。ところで、かつては「山姥の曲舞」が世阿弥以外の作者によって〈山姥〉よりも先に成立しており、この曲舞を劇中劇として世阿弥が〈山姥〉に組み入れた、というのが通説でした。この通説に対し、香西精氏(檜書店『能謡新考』「山姥」)は、たとえば、観阿弥作の「李夫人の曲舞」を摂り入れた世阿弥の〈花筐〉を見ると、その前後の詞章には明らかに作者による文体の相違がみられるが、〈山姥〉では曲舞の部分も他の部分も文体が同質的であり、全曲を通じよく平均し調和していることを根拠に、「山姥の曲舞」も世阿弥による創作ではないか、という指摘をされ、この説が現在では通説化しています。世阿弥は能作書である『三道』の中で「五段の内(序一段・破三段・急一段の五段構成の内)、序・急をさしよせて(簡略にし)、破を体(主体)にして、曲舞を本所(眼目のところ)に置きて、曲舞二段ばかりを、後段をばもみよせて(クセの後半のテンポを早めて畳みかけ)、道の曲舞がかりに(専門の曲舞風に)、こまかに(緻密に)書きて、次第にて舞ひとむべし(クセの末は次第の文句で終わるのがよい」と言っています。「山姥の曲舞」はこの言葉通りに創作された本格的な曲舞です。

夕顔 ゆうがお

〈夕顔〉は観世流・金剛流・喜多流では現行曲ですが、金春流・宝生流では演じられていません。その〈夕顔〉が2018年2月17日に、金春流では江戸時代の初め以来、約400年ぶりに復曲されました。〈夕顔〉のあらすじから見てゆきましょう。「旅僧が五条あたりを訪れると、和歌を詠む女の声が聞こえてきます。女はこの場所が河原院であり、光源氏と夕顔のことを語り消えます。僧が弔いをしていると、夕顔の霊が現れ舞を舞い、解脱をとげたことを告げ消える」という内容です。

世阿弥の能作書『三道』に「夕顔の上の物の怪に取られ…」という記述があります。ただ本曲は世阿弥の作風とはやや異質で、作者はよくわかっていません。最古の上演記録は寛正6年(1465)2月28日の観世所演の記録があり、これ以前には〈夕顔〉が成立していたことが分かります。既に指摘があるように出典は『源氏物語』夕顔巻をですが、中世の『源氏物語』注釈書や梗概書も参照し、中世的な理解に基づき『源氏物語』が用いられています。それは『源氏物語』で光源氏が愛人の夕顔を連れ出した「なにがしの院」を「河原院」とすることや、その夜、物の怪が現れ夕顔が急死する原因となった「物の怪」を「六条御息所」とするところに現れています。能の〈夕顔〉もまた、このような中世の『源氏物語』の理解に基づいて作られています。

同じく夕顔を描いた曲に〈半蔀〉があります。〈半蔀〉は光源氏と夕顔の出会いと二人の愛の回想を描いた曲です。〈半蔀〉は〈半蔀夕顔・夕顔上〉、〈夕顔〉は〈源氏夕顔・五条夕顔・夕顔上〉とも呼ばれていました。

なお、能好きで金春流を愛好した豊臣秀吉が吉野の花見の際に、宇喜多秀家所演の〈夕顔〉を見ています(『駒井日記』)。

遊行柳 ゆぎょうやなぎ

〈遊行柳〉のあらすじから見てゆきましょう。「諸国をめぐる遊行上人の一行が白河の関へやって来ます。すると老人が現れ一行を道案内し、柳にまつわる西行の歌について語ります。さらに老人は名木の「朽木の柳」を教えると、塚の中へ消えます。その夜、遊行上人が柳へ経をあげていると、塚の中から白髪の老いた柳の精が現れ、上人の御法に感謝をします。柳の精は揚柳観音や『源氏物語』の柏木の恋など柳にまつわる説話を語り舞を舞う」という内容です。

 〈遊行柳〉の作者は観世信光です。信光は観世座の大鼓方でしたが、太鼓方も勤めていました。〈船弁慶・紅葉狩・鐘巻(道成寺の原曲)〉といった風流能(ふりゅうのう)と呼ばれるショー的・スペクタクル性の高い曲を作っています。一方で、〈遊行柳〉のような閑寂な曲も作っているように、とても幅の広い能作者でした。〈遊行柳〉は世阿弥作の〈西行桜〉を意識して作られています。シテが老木の精であること・ワキが名のある僧であること・老体の序ノ舞を舞うことなどが類似点として指摘されています。風流能の全盛期にあって〈遊行柳〉のような曲が作られるということは、こうした閑寂な曲も求められていた、と言えるかもしれません。ところで、能ではしばしば「精」が登場します。精とはあるものに宿る魂のことであり、多くはその魂が別の姿形になって現れます。〈遊行柳〉でいえば「柳の精」とは、柳の魂が人の姿形で現れた、ということになります。

 なお、〈遊行柳〉は閑寂さとともに華やかさも求められることから、「位甚(はなは)だ大事なり」「上手年功の外、若輩のせざる能」と、能楽の秘事や口伝などを収めた江戸時代の徳田隣忠(りんちゅう)の『隣忠秘抄』にも記されています。それは現代においても変わっていません。

〔2022.10.27 能楽研究家後藤和也〕

弓矢立合 ゆみやのたちあい

【弓矢立合・延命冠者・父之尉・鈴之段】銀座に金春通りがあります。江戸幕府から拝領した金春屋敷が現在の銀座八丁目付近にありました。金春屋敷は後に麹町善国寺谷に移りましたが、明治以降、金春の名は銀座の金春屋敷付近の芸者屋街の称(金春芸者)や金春湯などに、その名を留めています。なお、奈良県には西竹田の地に金春屋敷があったと伝えられています。

金春祭りでは、〈延命冠者(えんめいかじゃ)(狂言方)・父尉(じょう)・鈴之(の)段(狂言方)・弓矢立合(ゆみやのたちあい)が演じられます。〈弓矢立合〉は〈翁(おきな)〉の異式で、かなり特殊なものです。本来は原則としてシテ方三流の家元が各流の流儀の型で、三人が相舞(あいまい)をする競演形式です。江戸時代には幕府の謡初(うたいぞめ)ノ式、春日若宮(かすがわかみや)(まつり)で演じられていました。現在は春日若宮祭「松の下式の能」で〈開口(かいこう)・弓矢立合・三笠風流(みかさふりゅう)〉の組み立てで、家元を中心にした三人の舞の形式で春日大社に奉納する神事(ジんじ)として、金春流により演じられています。〈延命冠者〉と〈父尉〉は、世阿弥時代には、能の座が〈翁〉を演じる際には、演じられなくなっていました。〈延命冠者〉と〈父の尉〉は、世阿弥時代以前の〈翁〉に含まれていた古い形態の〈翁〉の構成要素でした。ただし、〈延命冠者〉と〈父尉〉を含む〈翁〉は、大和猿楽の〈翁〉を専門とする座(能は演じない座)により、薪猿楽(たきぎさるがく)や春日若宮祭で室町時代以降にも演じられ、江戸時代には年預衆(ねんよしゅう)(〈翁〉を専門とする座の役者)により継承されました。〈鈴之段〉は〈翁〉で狂言方が勤める三番三(さんばそう)の役が舞う祝福の舞で、黒色尉(こくしきじょう)の面をかけ鈴を持って舞います。なお、直面(ひためん)で舞う三番三の舞は「揉之段(もみのだん)」と呼ばれています。

弓八幡 ゆみやわた

〈弓八幡〉のあらすじから見てゆきましょう。「後宇多院の臣下が勅命で男山八幡(石清水(いわしみず)八幡宮)の初卯(はつう)の祭に行くと、弓袋を携えた老人が若い男を連れ現れます。老人は神代の昔は弓矢で天下を治めたこともあるが、今は泰平の世なので弓を袋に納めて帝に献上するのだと語ります。さらに男山八幡の縁起を語り、自分はその末社の高良(かわら)の神(しん)であると告げ消えます。やがて高良の神が現れ八幡の神徳を讃え舞を舞う」という内容です。

 世阿弥の能作書『三道(さんどう)』に「老体」の模範曲として〈八幡〉の古名で挙げられているのが文献上の初出です。また、世阿弥の芸談集『申楽談儀(さるがくだんぎ)』には「真直成能也(まッすぐなるのうなり)。当御代(とうごだい)の初めのために書きたる能なれば、秘事もなし」とあり、〈弓八幡〉を「真直成能(まっすぐな趣の能)」と高く評価しています。また、「当御代の初めのため」、すなわち「将軍の代がわりのために作った」とあります。「当御代」には足利義持説と足利義教(よしのり)説があり判然とはしません。ただ、〈弓八幡〉が弓と矢で世を治めた故事を引き、なおかつ今は平和なので弓を袋に入れている、という構想は新将軍への祝意としてふさわ

しいと言えます。そのため、武家の祝儀の演能で〈弓八幡〉は頻繁に演じられ、〈高砂・老松〉を加え「真の脇能」と評価されていました。

 ところで、〈弓八幡〉には現代人の耳にも近い表現が散見されます。「君が代は千代に八千代にさざれ石の…」は、初句「わが君は」の形で『古今和歌集』に、「君が代」の形としては『和漢朗詠集』に収録されています(いずれも詠み人知らず)。

また、「神事」の発音が中世ではジンジ、「安全」がアンセン、「天下」がテンガであり発音の変化が確認でき興味深いです(『日葡辞書』が発音を知るのには有効)。

熊野 ゆや

【南をはるかに眺むれば】〈熊野〉の作者については金春禅竹(こんぱるぜんちく)(世阿弥の女婿)・観世元雅(かんぜもとまさ)(世阿弥の長男)説がありますが、明らかではありません。〈熊野〉のクセに「南をはるかに眺むれば、大悲(だいひ)擁護(オオゴ)のうす霞(がすみ)、熊野権現(ゆやごんげん)のうつります、み名も同じ今熊野(いまぐまの)」という謡があります。ここは『平家物語(へいけものがたり)』の「大悲擁護の霞は熊野山にたなびき」が背景にあります。今熊野神社は和歌山の熊野権現を勧請(かんじょう)(神仏の分身・分霊を他の場所に移し祭る意)した神社です。また、今熊野神社は神仏習合(しんぶつしゅうごう)(日本固有の神への信仰と仏教信仰が融合したもの)により、千手観音(せんじゅかんのん)と深い結びつきがあります。クセの訳は「大きな慈悲の心で薄くたなびく霞のように、人々を守る熊野権現がお移りになった、今熊野も私も同じ名の熊野」となります。ここで注目したいのは、今熊野神社が観音信仰と結びついていること、それに関連し詞章に「南」が出てくることです。仏教で、「西」は阿弥陀如来(あみだにょらい)の西方極楽(さいほうごくらく)浄土(じょうど)で有名ですが、「南」には観世音(かんぜおん)菩薩(ぼさつ)の住む、あるいは降り立つ補陀落山(ふだらくさん)があります。同じように〈田村〉にも「まづ南にあたつて塔婆(トオバ)の見えて候ふはいかなる所にて候ふぞ、あれこそ歌の清閑寺(セイガンジ)、今熊野まで見えて候」とあります。清閑寺の本尊は十一面千手観音で、今熊野と共に観音と関連します。また、〈盛久(もりひさ)〉の世阿弥自筆本には「南に向ひて観音の、御名(みな)を唱へて待ちければ」とあります。世阿弥の作とされる〈采女(うねめ)〉にも「所は補陀落の、南の岸に到りたり」と、「南」と観音を関連させる詞章がありますが、「補陀落」を出すなど、〈熊野・田村・盛久〉とは異質な印象を受けます。〈田村〉も〈熊野〉と同様に禅竹と元雅説があります。この二曲が元雅作の〈盛久〉と似ているのは、面白い一致と言えます。

楊貴妃 ようきひ

〈楊貴妃〉は金春禅竹(ぜんちく)作の可能性が高い曲です。金春禅竹は金春家の累代では第57世にあたり、金春流中興の祖と呼ばれています。世阿弥の女婿でもあり、世阿弥から『拾玉得花(しゅうぎょくとくか)』などの伝書を相伝されています。禅竹は〈芭蕉(ばしょう)・定家(ていか)・野宮(ののみや)〉などの能作者であり、『六輪一露之記(ろくりんいちろのき)』など多くの能楽論を著しています。役者としても優れ、第三代観世大夫(だゆう)である音阿弥(おんあみ)と並び能界を牽引しました。世阿弥の事実上の後継者と評価され、能作、能楽論、能役者として大きな業績を遺しました。禅竹の作品をこれまでの研究を踏まえ挙げてみましょう。▼

養老 ようろう 

〈養老〉のあらすじから見てゆきましょう。「養老の霊泉を訪れた勅使の前にその霊泉を見つけた親子が現れます。親子は養老の霊泉にまつわる話を語ります。勅使が霊泉の存在に歓喜していると奇瑞とともに山神が現れます。山神は水にこと寄せて御代を祝福し舞を舞う」という内容です。

〈養老〉の作者は世阿弥です。脇能(神能)を代表する祝言性に満ちた曲です。しかし、脇能の典型とは違った異色の能であることが、大系本『謡曲集』以来、指摘されてきています。〈養老〉の特色を概観してみましょう。

 多くの脇能の前場にはクセがあり、そこが聞きどころとなります。クセを前場に置きそこで養老の霊泉が語られるのが通例の構成ですが、〈養老〉の前場は、クリ・サシと続きますが次にクセとはならず、下ゲ歌・上ゲ歌・ロンギとなっているのが特色です。このロンギの後、来序の囃子で前シテ・ツレが中入をします。ところで、一般的に、脇能の中入にはパターンが二つあります。一つ目は、来序中入→末社アイ→待謡ナシ→後ジテ登場→楽・ハタラキ。二つ目は、通常の中入→語りアイ→待謡→後ジテの登場→神舞・真ノ序ノ舞です。〈養老〉は神舞を舞う二つ目のパターンですが、待謡を欠く異例の構成となっています。ここでロンギを見てみると「…音楽きこえ花ふれり、これただことと思われず」とあり、ここですぐに山神(後ジテ)が出現しないとおかしい所です。つまり、前シテ・ツレは舞台に残り、そこに別役の山神(後ジテ)が登場するのが本来の演出と考えられています。後世になって間狂言を加え前後同一の役者がシテを勤めるという演出上の変化があった為に、待謡がないと言った異例の構成になったと思われます。

〔2021.03.01 能楽研究家後藤和也〕

 

頼政 よりまさ 

〈頼政〉は世阿弥作の修羅能です。能作の伝書である『三道(さんどう)』で世阿弥は「源平の名将の人体の本説(ほんぜつ)ならば、ことにことに平家の物語のままに書くべし」と述べています。実際には「平家離れ」も世阿弥の修羅能には多いのですが、〈頼政〉は他曲に比べ、かなり忠実に『平家物語』巻四「橋合戦・宮御最期」を典拠として描かれています。それでも、世阿弥は『平家物語』にはない〈頼政〉独自の世界も描いてます。例えば、構想の中心とも言える「扇の芝」の話は『平家物語』にありません。ただし、史料はないものの世阿弥時代に「扇の芝」の話があった可能性(伊藤正義氏・集成本『謡曲集』解題)もあり、世阿弥の創作とも言い切れません。また、「橋合戦・宮御最期」」には具体的な頼政の合戦描写がありません。したがって、宮軍(みやいくさ)の描写では、シテが頼政の姿のまま、自分自身とは直接関係のない人物である忠綱(ただつな)のことを物語るという珍しい描写となっています(「作品研究・頼政」松本雍(やすし)氏・『観世』昭和49年5月)。また、佐成謙太郎氏は『謡曲大観』(全現行曲に注釈・現代語訳を施した唯一の書)で、「クセと語(かたり)と二節続けて、宮軍の様を余りにも委(くわ)しく語つてゐ(イ)るのである。脚色がやや冗漫に流れた嫌ひ(イ)があるのである。しかしかう(コオ)した欠点ゆとりのある所に、主演者の芸力を思ふ(ウ)がままに発揮する自由が与へ(エ)られている」と述べています。ところで、同じ老武者物に〈実盛(さねもり)〉があります。実盛は老武者の本懐の戦死を主題とし、功成りえず戦死した頼政と対照的です。しかし、伊藤氏の「解題」にもあるように、この差は『平家物語』における合戦描写の差でもあり、「埋(ンモ)れ木(ギ)の花咲く事もなかりしに身のなる果(ハテ)は哀れなりけり」と詠んだ頼政の心情にこそ主題があると言えそうです。

弱法師 よろぼうし

作者は世阿弥伝書の『五音(ごおん)』から、世阿弥の息子観世元雅(かんぜもとまさ)であることが分かります。〈弱法師〉には奈良の宝山寺(ほうざんじ)に世阿弥自筆本転写本(てんしゃぼん)がありますが、室町時代以降廃絶し、徳川綱吉(つなよし)の元禄期に諸流で復曲されました。しかし、金春流で復曲されたのは明治初年以降(平凡社『能・狂言事典』)で、明治版(130曲の維新後最初の揃本(そろいぼん))に追加する形で、『金春流謡曲(ようきょく)袖鏡(そでかがみ)』(明治44~45、150曲の揃本で大正前後の全演目数)に収めれられました(『鴻山文庫蔵(おうざんぶんこぞう)能楽資料解題・上』)。シテの弱法師は香西精(こうさいつとむ)氏が指摘した(檜(ひのき)書店『能謡新考(のううたいしんこう)』)、『太平記(たいへいき)』の「天王寺のや、え(ヨ)うれ(オレ)ぼし(ボシ)(諸本により「よろぼし・よろぼうし」等アリ)を見ばや」から、天王寺に弱法師と呼ばれる芸能者が実在した事が、今は有力視されています。世阿弥自筆本転写本と現行曲を比較すると、全体の流れは基本的に変わりません。しかし、転写本では現在では出ない妻がツレで登場し、現在ワキが勤める高安通俊(たかやすみちとし)(父)がツレ(またはワキツレ)で、そして、現在は出ない天王寺の住職がワキとして登場するなど、配役に異同があり、その結果、転写本と現行曲では本来の配役とは違う詞章を謡ったりする所がありますが、展開に矛盾を来たすようなことはありません。ところで、『五音』からクリ・サシ・クセだけは世阿弥作と分かります。元雅が取り入れたのか、世阿弥が後に増したかは判然としません。ただ、クセは一般に後半部の中心になりますが、本曲では必ずしもそうではなく、その後の日想(ジッソオ)(ガン)―イロエー心眼(しんがん)に映る難波(なにわ)の景色―父との再会に重点があります。能作上の問題にも関連し、クセを一曲の中でどう位置づけるか(後半への「伏線」とする天野文雄氏の指摘など、『桂坂謡曲談義』)がこの曲の課題かもしれません。

籠太鼓 ろうだいこ

〈籠太鼓〉のあらすじから見てゆきましょう。九州松浦の某は、口論の末に他郷の者を殺害した関の清次を牢にいれますが、清次は脱獄してしまいます。呼び出された妻は、夫の居所を聞かれますが、答えないため夫の代わりに牢に入れられます。妻は夫を想い狂気の態を装います。その姿に松浦の某は出牢を許可すると言います。鼓を打ち夫を慕う妻を見て、松浦の某は自分の親の十三回忌に当たるからと慈悲の心から清次の罪をも許します。女は最後に夫の行方を松浦の某に告げます。以上が〈籠太鼓〉のあらすじです。

一見して筋立てにやや無理が感じられます。こうした〈籠太鼓〉について、三宅晶子氏(「作品研究・籠太鼓」『観世』)は、筋書の展開の興味で作られる系統の籠物であるが、筋立ての工夫もなく、趣向は〈富士太鼓〉、枠組みは籠物、演技は物狂能、見せ場は仕事歌、と全てにわたり先行作品から借りて作られた曲、と指摘しています。しかし、世阿弥以後、次の時代の新風を待つ時期の過渡期におけるせいいっぱいの工夫ではなかったろうか、とも指摘しています。

〈籠太鼓〉の作者は不明で、典拠もない作り能です。最古の演能記録は寛正七年(1466)2月25日の観世大夫正盛の演能(飯尾宅御成記)です。現在、〈籠太鼓〉は演能機会が少ない曲に属しますが、室町時代から江戸時代を通して頻繁に演じられた人気曲の一つであったことが史料から伺えます。下掛リの最古本に金春禅鳳八郎本転写三番綴本があります。金春禅鳳の芸談集『禅鳳雑談』によれば、禅鳳が〈籠太鼓〉を好んでいたことが分かります。その『禅鳳雑談』には「この能、よき能とてほめ申され候。これはそらものぐるいなり」と狂気を装う「そら物狂」の指摘が注目されます。

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金春流の定例公演

金春会定期能
2024年
6月2日(日)12:30開演
「花月」本田芳樹
「采女」金春安明
「海人」佐藤俊之
円満井会えんまいかい定例能
2024年
6月8日(土)12:30開演
「養老」森瑞枝
「半蔀」林美佐

矢来能楽堂

金春流の特別行事

薪御能
2024年5月
17日(金) 興福寺/春日大社
18日(土) 興福寺/春日大社
大宮薪能
2024年5月
24日(金) 大宮氷川神社
25日(土) 大宮氷川神社
轍の会
2024年7月7日(日)
国立能楽堂 
「清経 恋ノ音取」本田芳樹
「伯母捨」櫻間金記
座・SQUARE
2024年7月15日(月・祝)
13:00~国立能楽堂
「班女」井上貴覚
「鞍馬天狗」山井綱雄
金春祭り
2024年8月7日(水)18:00~
能楽金春祭り 銀座金春通り
路上奉納能 獅子三礼
鎌倉薪能
2024年10月11日(金)
鎌倉宮境内 鎌倉・大塔宮
春日若宮おん祭り
2024年12月
17日(火)
18日(水)
春日若宮御祭礼式能
奈良市春日大社
弓矢立合、神楽式ほか