【あらすじ】秀吉が吉野での歌会のさまを大坂城の留守居の者たちに再現して見せていました。そこへ梅の精が現れます。梅の精は秀吉が桜を愛でて梅に関心がないことを嘆きます。梅の精は梅にまつわる故事を語り、梅の木の跡を残して欲しいと告げ消えます。秀吉は難波津に行き、難波の梅をこれからご神木として崇めると語ります。そして、自らの和歌をしたためた短冊を梅の木に結び付けます。すると、そこへ梅の精が再び現れ、秀吉へ礼を述べると、舞を舞い、秀吉の世の天下泰平と長寿を祝福し消えてゆきます。
【作者】大村由己の作詞、金春安照の作曲。
【成立】《高野参詣》の奥書から〈この花〉は文禄3年(1594)3月頃に成立。秀吉58歳。
平成12年(2000)に第80世金春流御宗家・金春安明師が所蔵する番外謡本の中から発見。能の研究者でもある金春安明師の大きな業績の一つ。
【演能初演記録(現代)】平成13年(2001)に観世流・久田勘鴎師により初演。平成14年(2002)に金春流・高橋忍師が初演。
【豊公能・太閤能】実際の秀吉の事績を題材にした能。成立時期は文禄三年(1594)3月以前に成立。もともとは10番あったと伝えられています(《高野参詣》の奥書)。いずれも作詞は大村由己、作曲は金春安照。この時期は上演を前提とした新作活動は終わっていて、上演を前提とした新作としては最後にあたります。能を愛好した武将(足利義満・徳川家康・徳川綱吉・徳川家宣など)は数多くいますが、自らの事績を題材に能を作らせ、しかも、実際にその能を自ら舞っているのは秀吉一人だけです。
〈吉野詣〉吉野に参詣した秀吉の前に蔵王権現が現れ秀吉の世を賛美する。
〈高野参詣〉高野山に参詣した秀吉の前に母・大政所が現れ秀吉の孝行を称えます。
〈明智討〉秀吉が光秀を討ち主君・信長の恨みを晴らした山崎合戦を描きます。
〈北条〉北条氏政の霊が現れ秀吉が小田原攻めの際に籠城の末、自害した最期を語ります。
〈柴田〉柴田勝頼の霊が現れ賤ケ岳の戦いで秀吉に討たれ自害した最期を語ります。
〈この花〉秀吉の前に梅の精が現れ、秀吉の世の天下泰平と長寿を祝福します。
【大村由己について】天正(1573~)の初年頃から秀吉に仕えていた文人(漢学・和歌・連歌・俳諧・狂歌などに堪能)で祐筆(書記)を務めていました。慶長元年(1596)に60歳位で没。御伽衆(おとぎしゅう・主君の側にあって特殊な経験や知識のあるものが、主君に話をして知識を伝えました。耳学問が中心だった秀吉は多くの御伽衆を召し抱えていたという。今でいう総理補佐官や総理秘書官)。大村由己は細川幽細とならび当時を代表する文人。秀吉の事績を『天正記』と総称(『播磨別所記・惟任謀反記・柴田合戦記・紀州御発向記・関白任官記・四国御発向并北国動座記・聚楽行幸記・小田原御陣』)される秀吉伝記集にまとめました。秀吉が大村由己に豊公能の作詞をさせたのは、能作の基盤に和歌・連歌があり、その二つに大村由己が堪能だったからと思われます。
【金春安照について】天文18年(1549)から元和7年(1621)没。第62世金春宗家。第61世金春宗家・金春喜勝の次男(長男は早世)。秀吉から最も贔屓にされ金春流の隆盛をもたらしました。その芸は高く評価され徳川家康・秀忠にも一目置かれていました。『金春安照仕舞付・金春安照装束付』と称される伝書や金春安照自筆本(謡本)が現存。晩年の秀吉は金春安照を身近に置き能に熱中していました。
【暮松新九郎について】詳細は不明ながら、山崎の離宮八幡宮(石清水八幡宮の別宮)の神職出身の金春座系の素人役者。山崎(現・京都)は大山崎油座により繁栄した地。山崎にいた猿楽者の多くは素人出身の役者で山崎衆と呼ばれていました。ちなみに、「素人」とは現在とは意味が違い、大和猿楽など古来からある座の出身ではない役者のことを指しました。「山崎の地で金春流を習った山崎衆の一人」が暮松新九郎ということになります。山崎は秀吉が大坂城に移るまでの一時期を過ごした地であり、その縁で暮松新九郎は秀吉の近づきになれたようです。この暮松新九郎が文禄二年(1593・秀吉57歳)正月に肥前・名護屋の秀吉の元へ新年の挨拶のため下向。これを機会に暮松新九郎の手ほどきを受け秀吉の能の稽古が始まり、暮松新九郎は秀吉贔屓の役者となります。ただし、後年、詳細不明ながら秀吉の機嫌を損ねたらしく、江戸に下り神田明神祭礼の能大夫を勤めた記録が残っています。
【豊臣秀吉と能】秀吉が能に熱中したのは晩年の文禄二年(1593・秀吉57歳)から慶長3年(1598・秀吉62歳)に没するまでのわずか6年たらずでした。秀吉は朝鮮出兵の指揮を執るため肥前・名護屋に下向しましたが、実際は時間を持て余していました。秀吉が関白職を譲ることになる甥の豊臣秀次は金春流の下間少進に師事し秘曲〈関寺小町〉を舞うほどの能好きで、秀吉の異父弟の豊臣秀長も金春安照を贔屓にした能好きでした。こうした環境の中、暮松新九郎が名護屋に訪れたことがきっかけとなり、秀吉の能楽熱中が始まりました。秀吉の能楽好きの特色は自らの演能を人に見せたがることでした。最初の50日ほどで〈松風・老松・三輪・芭蕉・呉服・定家・融・杜若・田村・江口〉10番を覚える熱の入れようでした。師の暮松新九郎が「人前で舞っても大丈夫」と太鼓判を押すほどの上達ぶりでした。そして、稽古を始めて9ケ月後の文禄二年(1593)10月5・6・11日に、禁中能を興行(後陽成天皇)。空前絶後の催しで秀吉は〈弓八幡・芭蕉・皇帝・三輪・老松・定家・大会・呉服・田村・松風・杜若・金札〉のシテを勤めています。翌・文禄3年3月1日には吉野蔵王堂宝前(吉野の花見)で〈吉野詣・源氏供養・関寺小町〉を、3月5日には高野山で〈老松・井筒・皇帝・松風・高野参詣?〉を演じています。同年の3月15日には大坂城で豊公能〈吉野詣・高野参詣・明智討・柴田・北条〉を演じています。秀吉の演能記録に残る曲は〈井筒・老松・杜若・邯鄲・金札・呉服・源氏供養・皇帝・関寺小町・大会・高砂・田村・定家・唐船・芭蕉・松風・通盛・三輪・頼政・弓八幡・吉野詣・高野参詣・明智討・柴田・北条〉の25曲です。
【秀吉の能楽保護】秀吉は猿楽諸座を大和猿楽四座(観世・金春・宝生・金剛)に統合・再編し、その上で各座に配当米・扶持米、すなわち、固定給を支給するよう制度化しました。これにより、猿楽(能)の役者は初めて生活の安定を得たと言えます。この政策は江戸時代にも引き継がれました。能にとって秀吉は最大の恩人の一人と言えます。
【参考文献】表章氏・天野文雄氏『岩波講座・能狂言Ⅰ』(岩波書店)、天野文雄氏『能に憑かれた権力者』(講談社選書メチエ)、中司由紀子氏「豊公能〈この花〉について」(「金春月報」2000年11月号)