金春こぼれ話
金春流および能楽に関わるお話をご紹介します(タイトル50音順)

能楽と金春流の広がり

能は難解で、近寄りがたいものと言われますが、実際には日本の文化や生活の中に深く根付いています。金春流および能楽に関連するいろいろなお話をご紹介いたします。

金春こぼれ話 項目50音順 

一休禅師/一調/岩倉具視/江戸城の謡初め/謡本の歴史/映画/江戸城の謡初/大久保長安/大鼓方金春流/奥の細道/織物(西陣織)/書上/春日若宮祭と世阿弥生誕年/春日若宮おん祭礼式能/歌舞伎/株式市場/観阿弥・世阿弥/北七大夫長能/蜘蛛塚/黒川能/古典もはじめは新作/国立能楽堂/金剛流の歴史/金春会/金春金襴/金春禅竹と世阿弥の娘/金春禅竹作の現行曲/金春安照/金春流の作法いろいろ/暮松新九郎/佐渡島/地頭のすわる位置/式能/シテ方五流の関係/仕舞の歴史/写楽/素謡の歴史/千利休と能/薪御能/附祝言と追加/ツレ/テレビ/刀剣乱舞/豊臣秀吉と能/鳥養道晣/奈良金春会/日本画/日本芸術院会員人間国宝/俳句風姿花伝文学間部詮房マンガ/無形文化遺産/柳生新陰流/安田善次郎落語埒を明ける/乱拍子/レナード・バーンスタイン

一休禅師(いっきゅうぜんじ)

57世禅竹と一休禅師:一休宗純は1394年(明徳5)に生まれた叛骨の禅僧です。晩年を過ごした酬恩庵(一休寺)には「金春の芝」があり、これは一休禅師に深く帰依し、親しく参禅した57世金春禅竹が、一休のために能を演じたところと伝えられています。

一調(いっちょう)

一調は、小鼓、大鼓、太鼓のうち一人と、謡い手一人とで、能の一部を演奏する形式です。きわめて高度で応用的な技法を要するため、多くの場合、演者は力量あるベテランに限られています。

岩倉具視(いわくらともみ)

能楽再興・発展に寄与した人々①

近代における能・狂言の恩人に岩倉具視卿(1825~1883)がいます。華族出身の政治家で、明治維新を推進した人物です。1876年(明治9)、岩倉邸で維新後初の天覧能を開催。岩倉卿の提唱で、能・狂言の存続を目的とした能楽社設立。1881年(明治14)に芝能楽堂を建設するなどの方策により、能・狂言は明治維新の激動を乗り切り、現代に生きる古典芸能となったのです。

江戸城の謡初(うたいぞめ)

江戸時代、正月の恒例儀式として将軍を始め諸大名が、江戸城の大広間に列座して謡初が行われました。まず、観世大夫による小謡と居囃子、輪番の大夫による居囃子が奏され、最後に三人の大夫が「弓矢立合」を相舞で舞う、という形式でした。

謡本(うたいぼん)の歴史

「世阿弥自筆能本」が最古で観世文庫に四曲〔難波(なにわ)・松浦(まつら)・阿古屋松(あこやのまつ)・布留(ふる)〕)、奈良県宝山寺に五曲〔盛久(もりひさ)・多度津左衛門(ただつのさえもん)・江口・雲林院・柏崎〕が伝存。うち宝山寺の分は世阿弥から金春禅竹(ぜんちく)に与えられたようです。金春流の謡本は大夫(たゆう)系(宗家系)と車屋本(くるまやぼん)系(金春喜勝(よしかつ)の弟子で書家の鳥養道(とりかいどうせつ)が書写改訂した謡本)に分けられます。大夫系最古の謡本が「金春禅鳳(ぜんぽう)自筆本」で、他に「金春喜勝自筆本」や「金春安照(やすてる)自筆本」があります。また、揃本として「遊音抄(ゆうおんしょう)」や「野坂本三番綴謡本」、番外曲まで含む「了随(りょうずい)三百番本」もあります。車屋本は「吉川家(きっかわけ)旧蔵本」を始め数種の写本が伝存しています。江戸時代版本では「整版車屋本」が最古の印刷物の一つです。車屋本系では後に「谷口・伊勢や本」が広く普及しました。大夫系の謡本は「六徳本」としてまとめられ、明治版・大正版・昭和版金春流謡本に引き継がれています。

〔能楽研究家後藤和也〕

 

映画

黒澤明監督は作品の中で見事に能を活かしています。「虎の尾を踏む男達」は〈安宅〉に典拠し、「乱」では金春流能楽師・本田光洋(みつひろ)が能作法の指導をしています。小津安二郎監督の「晩春」では、二世梅若万三郎の能〈杜若〉が長時間映し出されています。

 

大久保長安(おおくぼながやす)

能役者出身の大名:戦国末から江戸初期の大久保石見守長安(1545~1613)は、金春宗家の分家、大蔵大夫家の出でした。徳川家康に仕え、佐渡奉行、所務奉行(後の勘定奉行)、年寄(後の老中)、伊豆奉行にも任じられました。

 

大鼓(おおつづみ)方金春流

これまでに廃絶した能の流儀(ほとんどが明治維新後)が十流あります。ワキ方の春藤・進藤流、笛方の春日・平岩・由良流、大鼓方の威徳・幸(小鼓幸分流)・金春流(表章氏「「大鼓金春流」考」に詳細な考察がある)、太鼓方の金春流(太鼓観世分流、現在の太鼓方金春流とは別)、狂言方の鷺流です。

このうち大鼓方・金春流は金春三郎右衛門氏則が初世です。三郎右衛門は金春又右衛門重家の三男でした。三郎右衛門の父又右衛門は、金春座の太鼓方でしたが、時の名人である観世座太鼓方・与左衛門国広に流儀を越えて師事し太鼓方・観世流の秘事を相伝されていました(又右衛門の長男が徳川家康の命令で金春座から観世座へ異動し、観世大夫暮閑に許され金春から観世に改姓したのが、太鼓方・観世流の六世観世佐吉重次です。現在の太鼓方観世流に続く事実上の始祖)。

また、又右衛門は太鼓の台である「又右衛門台」を発明したことでも知られており、その名称は今でも残っています。この又右衛門台が出来る以前は、別の人に太鼓を手で持ってもらい太鼓を打っていました。そのため「太鼓持ち」の語源は能からきているとする説が有力です。金春三郎右衛門氏則は、金春座大鼓方・四世大蔵源右衛門正重の弟子となり太鼓方ではなく大鼓方に進みました(当時、金春座で大鼓方が不足していたらしい)。二代将軍秀忠の時に金春座大鼓方となり、大鼓方・大蔵流(後に大倉流)の弟子家として成立しました(ちなみに太鼓方・金春流と観世流は金春禅竹の伯父にあたる金春三郎豊氏がともに初世)。分家として広島浅野藩に召し抱えられた、二世・金春三郎右衛門の弟であった金春市左衛門家、その金春市左衛門家の別家も浅野藩に出仕していました。また、金沢前田藩に仕えた分家・金春伝蔵家(二世・金春三郎右衛門の三男)を含め、みな廃絶してしまいました。金春流能楽師・金春康之師は、前述した分家・金春市左衛門家の別家の後裔にあたります。

 

〔能楽研究家後藤和也〕

 

奥の細道(おくのほそみち)

【あらすじ】芭蕉が旅の途中で、越中市振の宿に泊まります。芭蕉は宿主に杖と笠を預け、自らの名を明かし俳論を語ります。芭蕉が寝た後、同じ宿に宿泊していた遊女二人が、旅の不安を語り合い、芭蕉に伊勢まで同行してくれるように頼もうと決めます。宿主は遊女を芭蕉に引き合わせ、遊女は伊勢までの同行を芭蕉に頼みます。しかし、芭蕉はその申し出を断ります。遊女は名残を惜しむ舞を舞い、芭蕉は笠と杖を手に、時雨のなかを旅立って行きます。

【見どころ】松尾芭蕉の『奥の細道』に題材を取った高浜虚子の新作で、昭和一八年に桜間金太郎(弓川)をシテに初演されました。芭蕉の俳論や紀行文が多く取り入れられた曲です。前半は俳論を語る[クセ]が中心で、後半は遊女が舞う、別離の舞が見どころです。金春流でしか演じられていない、高浜虚子の新作能です。  

織物・西陣織(おりもの・にしじんおり)

日本文化の原点

能楽は織物・紋様・染色・工芸など様々な日本文化のもとになっています。とくに織物は能なくしては語ることができません。能装束の一つ唐織というのは、「いい織物」という意味です。古来、高級品のことを「唐物(からもの)」と言っていました。海外からの質の高い、高価な輸入品を珍重してきたため、日本で生まれた唐織も、いちばんいい織物、という意味を込めて唐織と呼びました。それほど能装束は、織物の世界でも、最高の技術が込められたものなのです。

世界最高峰の日本の織物技術すべてが結実したものが、能装束です。錦(にしき)、繻子(しゅす)、綾(あや)、紗(しゃ)、絽(ろ)など、すべて能装束にあります。西陣織には千年の歴史がありますが、能衣装があったが故に技術が保存されたと言っても過言ではありません。西陣の源泉は能装束だったわけです。

 

書上(かきあげ)

江戸時代、上演可能な曲を幕府に提出した上演可能曲目一覧。

春日若宮祭と世阿弥生誕年

2020年の「春日若宮おん祭」はコロナ禍の影響により一部を縮小・非公開の形で行われます。室町時代、春日若宮祭は多武峰八講猿楽・興福寺薪猿楽と並び猿楽者(能楽師)の三大参勤義務の一つでした。この春日若宮祭は古来、種々の理由によりしばしば中止になることがありました。世阿弥時代の春日若宮祭の状況について、世阿弥の生誕年とあわせ、表章氏の「世阿弥生誕は貞治三年か」、『能楽研究講義録』を参考に見てゆきましょう。

 春日若宮祭などが中止となった原因に「神木動座」と「神木入洛」があります。興福寺が訴訟の際に有利に運ぶため、支配下にあった春日大社の御神体の鏡を真榊につけ、その神木を衆徒が京都の途中まで移すのが「神木動座」、神木を持って京都へ入るのが「神木入洛」でした。御神木の神威を借りて訴えを通そうという一種の強訴でした。平安時代以降、朝廷の公家は大半が藤原氏であり、その藤原氏の氏神が春日大社でした。そのため、神木動座や神木入洛があると藤原氏は神威を恐れ謹慎閉門してしまい、その結果、朝廷の政務も停止してしまう状態でした。春日大社の御神体が奈良にないわけですから当然、春日若宮祭も中止となります。

 ところで、世阿弥の生年は旧来は1432年(永享4)成立の世阿弥伝書『夢跡一紙』に「今七秩にいたれり」の「七秩」を「七十歳」と解し、そこから逆算して1363年(貞治2))生まれとするのが定説でした。この定説に対し、表氏は「七秩」が数年の幅を含む語であること、さらに、『申楽談儀』の「世子十二の年」の記事から世阿弥の生誕年が貞治3年であることを提唱されました。『申楽談儀』によれば、世阿弥が12歳の時に、春日若宮祭の前日にある「装束賜りの能」で田楽の喜阿弥の芸を見て感動したというものです。定説の貞治2年生まれとすると、「世子十二の年」は1374年(応安7)ですが、この年は前述した神木入洛が行われた年であり、春日若宮祭も中止となり、当然「装束賜りの能」もありません。したがって、この年は世阿弥が12歳の年ではないということになります。翌年の1375年(永和元)は春日若宮祭が行われています。注目すべきはこの前後数年間は春日若宮祭が中止になっていることです。つまり、「世子十二の年」は1375年(永和元)であり、そこから逆算すると、世阿弥の生誕年は1364年(貞治3)が正しいということになります。

 2013年(平成25)が旧説に従えば世阿弥生誕650年にあたり、国立能楽堂を始め各能楽堂・各流・各地で記念の催しがありました。翌年の2014年(平成26)には、国立能楽堂の企画公演で金春流の素謡〈翁〉と能〈当麻〉がありましたが、その催しのチラシには「世阿弥生誕650年Ⅱ」とありました。

〔2020.12.12 能楽研究家後藤和也〕

※春日若宮祭は、毎年12月17日・18日に開催されます。

春日若宮おん祭礼式能 奈良春日大社

【春日若宮おん祭】平安時代の保延二(1136)年に、時の関白藤原忠通が五穀豊穣、国家安寧を祈願し始められ、現在は重要無形文化財に指定されています。この祭礼では「遷幸の儀・暁祭・本殿祭」など数々の儀式と共に、猿楽(能)・神楽・東遊・田楽・細男・舞楽など種々の芸能が演じられます。また、芸能や祭礼に参加する人々が、華やかな衣装を着て都大路を、日使・巫女・細男・相撲・猿楽・田楽・馬長児・競馬・流鏑馬・将馬・野太刀他・大和士・大名行列の順で、都大路を練り歩く「お渡り式」も有名です。なお、最終日には後宴能が催されます。以下、能楽に関連する行事を中心に紹介します。

【お渡り式】華やかな装束に身を包んだ、総勢千余名に上る芸能集団や祭礼参加者の行列が、旧興福寺境内、現在の奈良県庁前広場を出発し、一の鳥居を入りすぐ南にある「影向の松」の前で、「松の下式」を行いお旅所へ向います。この様子は、華やかな風流の行列として、おん祭の大きな魅力の一つです。能は猿楽という古名で呼ばれ、現在は金春流のみが出仕しています。

【松の下式】春日大社一ノ鳥居の内に、影向の松があります。この松の下で〈開口・弓矢立合・三笠風流〉が演じられ、それが終わると地謡が附祝言(つけしゅうげん)を謡います。なお、お旅所へ参入する前に、金春大夫が柴の垣根に結んだ白紙を解いてから祭場へ入るのが習わしで、「金春の埒(らち)あけ」と言われる、有名な見せ場です。

【お旅所祭】お旅所には正面の一段高い所に若宮神の行宮があり、その前に小高い五間四方の芝舞台があります。お旅所祭は、おん祭の中心行事で、夜の10時半頃まで各種芸能が奉納されます。午後4時から神楽が舞われ、田楽・細男・猿楽・舞楽などが演じられます。猿楽は〈翁〉の略式である〈神楽式〉と、〈三番三〉を演じます。

※毎年12月17日・18日に開催されます。

歌舞伎と能

能・狂言をもとにした歌舞伎演目も数多く、例えば、能〈安宅〉から「勧進帳」、〈大江山〉から「酒呑童子」、〈俊寛〉から「平家女護島」、〈石橋〉から「連獅子」、〈一角仙人〉から「鳴神」が生まれています。

株式市場

投機目的で株式を大量に売買する者を仕手・仕手筋と言いますが、能の主役「シテ」を流用したものと言われています。また、株式市場での午前中の取引を前場(ぜんば)、午後を後場(ごば)と言いますが、能で前後に場面が分かれる場合には、前場(まえば)・後場(のちば)と言います。

観阿弥・世阿弥

観阿弥・世阿弥(かんあみ・ぜあみ):観阿弥(1333~1384)は南北朝から室町時代にかけての観世座の大夫。名は清次。息子の世阿弥とともに、能を大成。1375年(もしくは1374)に京都今熊野で観阿弥が世阿弥とともに演じた猿楽能を室町3代将軍足利義満が観覧。以後、将軍はじめ有力武家、公家らの愛顧を得て、庇護されました。世阿弥(1363? ~1443?)は、父観阿弥とともに能を大成し、多くの書を残しました。名は元清。世阿弥作とされるものには、〈高砂・井筒・実盛〉など50曲近くがあり、現在も多くの曲が上演されています。その上さらに『風姿花伝』などの優れた能楽論を数多く残しました。1434年(永享6)、6代将軍足利義教により佐渡に配流。その罪状も佐渡からの帰洛についても不明。

北七大夫長能(きたしちだゆうおさよし)

天正14(1586)年~承応2(1653年。喜多流宗家初世。金剛大夫弥一の養子となる。慶長6(1601)年16歳で元服し、金剛三郎を名乗る。1605年弥一の没後、金剛大夫となったが、大坂の陣で豊臣方に加担し、大坂落城後は浪人。京都で素人に能を教えて生活。元和5(1619)年7月、徳川秀忠の上洛中に金剛七大夫として金剛座に復帰。後、金剛座から独立。妻は金春安照(やすてる)の娘で、岳父や下間少進(しもつましょうしん)らの影響を受けたと推測される。⇒「能楽大事典」(筑摩書房)

黒川能(くろかわのう)

地方に生き続ける能

能・狂言が民俗芸能として庶民の間に根付いている代表に黒川能があります。山形県鶴岡市黒川で、鎮守の春日神社に氏子たちが奉納する神事能です。2月1日・2日の王祇祭が代表的な行事です。

蜘蛛塚(くもづか)

上品蓮台寺の蜘蛛塚

東向観音寺の蜘蛛塚

土蜘の逸話にまつわる蜘蛛塚は京都市内に二つあります。一つは上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)墓地の隅に椋むくの老樹があって、その根元に蜘蛛塚があります。もう一つの蜘蛛塚は、江戸中期の「拾遺(しゅうい)都名所図会」に見えます。場所は現在の七本松一条あたり。明治になって開発のため取り壊されるが、このときにかかわった人々が相次いで不幸に見舞われました。取り壊し時の遺構が土蜘蛛塚として祀られ、北野天満宮そばの東向観音寺に奉納されました。上品蓮台寺:京都市北区紫野十二坊町33-1 東向観音寺:京都市上京区今小路通御前通西入上る観音寺門前町863〔s.w〕

国立能楽堂(こくりつのうがくどう)

国立能楽堂:東京・千駄ヶ谷にある能楽の殿堂。1983年(昭和58)9月開場。79世金春信高が建設実現に尽力。金春流をはじめ各流の能・狂言の自主公演、後継者育成、資料の収集・展示などを行っています。金春流では定期公演・金春円満井会特別公演など国立能楽堂を主な活動拠点としています。

東京都渋谷区千駄ヶ谷4-18-1 TEL 03-3423-1331(代表) 

国立能楽堂公式サイトで公演情報をご覧になれます。

 

古典もはじめは新作

能は古典芸能と呼ばれていますが、現在の演目が作られた当時は当然、新作能でした。古い時代を振り返ってみましょう。世阿弥の能作書『三道』(1423年、世阿弥61歳)には、「新作の本体(模範)」として、〈弓八幡・高砂・養老・老松・融・蟻通・檜垣・忠度・実盛・頼政・清経・敦盛・恋重荷〉など29曲が挙げられています。〈自然居士〉等の原作者である観阿弥、先に引用した曲を含め約50曲の能を作った世阿弥、〈角田川〉などの名曲で知られる観世元雅、〈野宮・芭蕉〉等を作った金春禅竹など、世阿弥時代には史料から約100曲前後の曲の存在が確認できます。その後、〈嵐山〉などの金春禅鳳、〈船弁慶〉などの観世信光、そして、新作期の最後の作者である〈正尊〉などの観世長俊と、代表的な作者はみな能楽師です。室町期までに作られた能は約七百曲、江戸時代の終わりまでで約2500曲です(大半は上演ナシ)。明治以降では約100曲の新作能が作られています。〔能楽研究家後藤和也〕

金剛流(こんごうりゅう)の歴史

不分明ながら鎌倉時代から法隆寺に勤仕し室町時代には春日興福寺に参勤した坂戸座が源流です。世阿弥の『申楽談儀(さるがくだんぎ)』には「金剛は松・竹とて二人、鎌倉より上りし者なり」とあり、観阿弥と同時代の金剛権守(金剛座は彼の芸名に由来するらしい)の名も見えます

関東から来た能役者が、まず〈翁〉主体の坂戸座に所属し、やがて演能集団としての金剛座が坂戸座を継いだようです。なお、江戸時代に書かれた家元系図では坂戸孫太郎氏勝を流祖とし5世金剛三郎正明の時に金剛と改姓したとありますが確かなことは分かりません。

歴代では中興の祖と呼ばれた7世氏正が傑出しており豪快な芸風で勝気な性格から金春と騒動を起こしたりしています。また、養子扱いで金剛大夫を継いだ金剛三郎は大阪の陣で豊臣方に加担したらしく一時失脚し金剛座を離れましたが、江戸時代に幕府から許され北(喜多)七大夫として喜多流を創始しました。15世又兵衛長頼は足早又兵衛の異名をとる名手です。21世唯一(ゆいいち)は〈土蜘蛛〉で細く長い糸を数多く投げる現在の「千筋之伝」の創始者として有名。

23世右京で坂戸金剛家は断絶(昭和11年没)しましたが、シテ方四流の家元の要望と推薦により、初世・金剛巌(もともと分家に準ずる家柄で祖父の代まで野村姓だったが金剛姓を名乗ることを許されていた。野村金剛家と通称)が新宗家を継承しました。〔能楽研究家後藤和也〕

金春会(こんぱるかい)

雑誌「能楽」(大正77月号)の「金春会の成立」によれば、細川侯爵家別邸内の能舞台新築を機に金春会が成立しました。「本会は金春流能楽の維持発展を図り及、同好者相親睦し研究するを以て目的と」した(規約第二条、規約は全十条)とあるように、元来は流儀・流友の組織の名称でした。会長は岡部子爵、顧問に細川侯爵、商議員として金春光太郎師・金春栄次郎師・櫻間金太郎師が名を連ねていました。附則一に「催能は当分の内年五回と」し、附則二には「特別席・甲席・乙席」などの座席が示され、特別席が6(現在の価値で約5千円)でした。これが現在に続く「金春会」で、記念すべき「第1回金春会」は大正7(1918)623日、富士見細川家舞台(現・千代田区富士見町、靖国神社近く)で催されました。番組は金春光太郎師の〈養老〉、金春栄次郎師の素謡〈八島〉、高瀬寿美之輔師(櫻間左陣師・櫻間弓川師に師事)の〈玉葛〉、櫻間金太郎師の〈是界〉でした。第1回金春会から100年を経て、101年目に入った2019年4月7日(日)の金春会に、第1回と同じ〈是界〉が出るのも不思議な巡り合わせを感じます。〔能楽研究家後藤和也〕

金春金襴(こんぱるきんらん)

名物裂(めいぶつぎれ=茶道用語)の一種。紺・白・浅黄・こげ茶・茶・浅黄・茶色で一組の経縞(たてしま・約1ミリ幅)を繻子(しゅす)地で織り出し、その上に草花と宝尽くし紋を散らす。中国明代末期の製になると言われる。金春大夫が足利義政から拝領した能装束の裂と伝えられる。中興名物(茶道具における名物の一種)「秋夜茶入(あきのよちゃいれ)」の仕覆に用いられる。

※名物裂(めいぶつぎれ)とは、鎌倉時代から江戸時代中期にかけて渡来した特定の染織物。主として中国の宋・元・明・清代の織物で、金襴(きんらん)、緞子(どんす)、間道(かんとう)、錦(にしき)、更紗(さらさ)などが含まれている。名物といわれる茶器の仕覆、掛物の表装などに使われたもの。当時の茶人たちの見識で選ばれたもので、その好みを象徴している。⇒「新版・茶道大辞典」(淡交社)

金春禅竹と世阿弥の娘

「世阿弥が佐渡から金春禅竹にあてた手紙の中に、老妻(と思われる)寿椿(じゅちん)を世話してくれてありがとう、という一節がある。世阿弥のプライベートをうかがえるほんの一瞬である」

「金春禅竹には『稲荷山山籠記』があって、禅竹夫婦の愛情の通い合いがうかがえる。63歳の『老病苦痛」』緩和祈願のため、禅竹は『老女(=世阿弥の娘)』といっしょに、伏見稲荷の文殊堂に計14日間も参籠するのだが、そのとき老女は「禅竹さまが神さまになっている」といった霊夢を見てくれているし、禅竹の方も、二人で稲荷山を歩きながら巻いた連歌の第三句までを記し、つまり、老女の発句と第三句をわざわざ書き留めてあげるのである。ほほえましい夫婦である。この名前もわからない、世阿弥の娘つまり禅竹の妻が、世阿弥と禅竹を結んでとても大きな役割を果たしたことだけは、まずまちがいないところだろう。⇒松岡心平「世阿弥の世界」(京都観世会)

金春禅竹作の現行曲(これまでの研究を踏まえたものです)

【これまでの研究を踏まえた、禅竹作が確実な現行曲】加茂(かも)・佐保山(さおやま)・和布刈(めかり)(金春流ナシ)・千手*(せんじゅ)楊貴妃*(ようきひ)・定家(ていか)・野宮(ののみや)・芭蕉(ばしょう)・杜若(かきつばた)・小塩(おしお)・玉葛(たまかずら)・雨月(うげつ)・松虫(まつむし)小督*(こごう)・鍾馗(しょうき)

【これまでの研究を踏まえた、禅竹作の可能性が高い現行曲】熊野*(ゆや)・竜田(たつた)・代主(しろぬし)(金春流にナシ)

【これまでの研究を踏まえた、禅竹作の可能性がある現行曲】 岩船(いわふね)・西王母(せいおうぼ)・東北(とうぼく)・源氏供養(げんじくよう)・三輪(みわ)・富士太鼓(ふじだいこ) ・仏原(ほとけのはら)・賀茂物狂(かもものぐるい)(上記二曲金春流にナシ)・俊寛(しゅんかん)・谷行(たにこう)・春日龍神(かすがりゅうじん)

禅竹の曲を概観すると、修羅物(武将が活躍する能)がないこと、夢幻能の蔓物(女性が優美な舞を舞う)が多いことが目につきます。三宅晶子氏『歌舞能の成立と展開』(ぺりかん社)によれば、太字*で示した曲は、現在能形式の歌舞能かぶのうでシテに舞を舞わせる曲で、禅竹の特色の一つとされています。また、〈楊貴妃〉は現実の人間である方士ほうじが皇帝の勅命ちょくめいを受け、死後の仙界である蓬莱宮(ほうらいきゅう)で楊貴妃に会うという、夢幻能仕立の現在能です。通常の夢幻能では死者が現実の世界に現れますが、本曲ではそれが逆である意欲的な作品です。現在能で帝の勅命を受けた源みなもとの仲国なかくにが小督局(こごうのつぼね)を訪ねる〈小督〉と対をなす曲と言えそうです。〔能楽研究家後藤和也〕

金春屋敷と金春祭り(こんぱるやしき)

金春屋敷と金春祭り:銀座に金春通りがあります。江戸時代、金春家の屋敷が現在の銀座8丁目付近にありました。金春芸者や金春湯などにその名を留めています。1979年(昭和54)に、この通りの商店で「金春通り会」が結成され、「金春通り」の名が復活しました。能楽金春祭りは、この金春通り会と金春円満井会の協力のもと、1985年(昭和60)に始まりました。以後、毎年8月7日に金春通りで、路上能が奉納されています。

金春安照(こんぱるやすてる)

【金春安照について】天文18年(1549)から元和7年(1621)没。第62世金春宗家。第61世金春宗家・金春喜勝の次男(長男は早世)。秀吉から最も贔屓にされ金春流の隆盛をもたらしました。その芸は高く評価され徳川家康・秀忠にも一目置かれていました。『金春安照仕舞付・金春安照装束付』と称される伝書や金春安照自筆本(謡本)が現存。晩年の秀吉は金春安照を身近に置き能に熱中していました。

金春流の作法いろいろ

(おうぎ)の持ち方

【能のとき】能の地謡(じうたい)は扇を立てて持ちます(垂直持ち)。作法は五流でそれぞれ違います。金春流は右手片手で、すぐに立てて持ちます。附祝言(つけしゅうげん)を謡うときは(作り物およびシテ・ワキ・子方などの登場人物が幕に入り幕が下りたあと)、扇は立てず、斜めに持って(斜め持ち)謡います。

【舞囃子(まいばやし)のとき】シテは扇を斜めに持ちますが、地謡は立てて持ちます。ワキ、ツレなどの謡は、地謡の一人が扇を斜めに持って謡います。五流で異なります。附祝言を謡うときは、シテが地謡の前に帰って来て、座ってから、全員で斜めに持って謡います。

【仕舞(しまい)のとき】扇は斜めに持って謡います。

【扇斜め持ち】扇を深く握りしめすぎると肩肘を張ったように見えるので、扇を軽くつまみ、手首を膝に軽く付けます。

【扇垂直持ち】扇が前後や左右に傾かないように注意し、手首を膝に軽く付けます。

扇の挿しどころ

金春流では、角帯(かくおび)の間にしっかりと扇を挿します。こうすると扇を落とす心配もありません。また、地謡や後見(こうけん)が素襖(すおう)侍烏帽子(さむらいえぼし)(⇒例:「翁」の後見・地謡)の場合も同じく角帯に挿します。それに対し、登場人物である場合(⇒例「望月・鉢木)のシテ、「土蜘」の太刀持チ)は、角帯を使わないため、扇は素襖の長袴(ながばかま)の紐に挿します。シテ方五流、ワキ方、囃子方、狂言方それぞれ流儀によって扇の挿しどころが異なります。

「観世は、「小刀の心得あり」と、称して、袴の紐へさしますが、金春・喜多は、「大刀の心得あり」と、称して、帯へさすことになっています」【「喜多六平太」長田午狂編著より】

袴の紐の結び方

金春流は(一文字、横十文字でなく)しっかりと結ぶ、結び切りです。昔、武士はしっかりと結んでいました。武家礼法の小笠原流も金春流と同じ結び方をします。〔s.w〕

暮松新九郎(くれまつしんくろう)

【暮松新九郎について】詳細は不明ながら、山崎の離宮八幡宮(石清水八幡宮の別宮)の神職出身の金春座系の素人役者。山崎(現・京都)は大山崎油座により繁栄した地。山崎にいた猿楽者の多くは素人出身の役者で山崎衆と呼ばれていました。ちなみに、「素人」とは現在とは意味が違い、大和猿楽など古来からある座の出身ではない役者のことを指しました。「山崎の地で金春流を習った山崎衆の一人」が暮松新九郎ということになります。山崎は秀吉が大坂城に移るまでの一時期を過ごした地であり、その縁で暮松新九郎は秀吉の近づきになれたようです。この暮松新九郎が文禄二年(1593・秀吉57歳)正月に肥前・名護屋の秀吉の元へ新年の挨拶のため下向。これを機会に暮松新九郎の手ほどきを受け秀吉の能の稽古が始まり、暮松新九郎は秀吉贔屓の役者となります。ただし、後年、詳細不明ながら秀吉の機嫌を損ねたらしく、江戸に下り神田明神祭礼の能大夫を勤めた記録が残っています。

佐渡

新潟県佐渡市(佐渡島)には今でも30以上の能舞台があり、能楽が盛んです。佐渡は世阿弥が晩年の1434年(永享6)に流された島として有名ですが、ここに能が定着したのは、金春流能役者の家柄の出であった大久保長安が代官として、1604年(慶長9)に着任したことに由来すると考えられています。

地頭(じがしら)のすわる位置

地謡(じうたい)は番組表(プログラム)の中では、舞台に並ぶそのままの形で記されています。上段にあるメンバーが前列、下段が後列で、もっとも左に書かれている上段と下段の二人が、客席寄りにすわります。後列の中央が地謡を統率する地頭で、観世流・金剛流・喜多流の場合は左から二人目、金春流・宝生流では左から三人目と決まっています(地謡が8名の場合)。〔s.w〕

式能

式能とは本来、江戸時代に江戸城で催された儀式(新将軍就任・婚儀・将軍世継誕生祝など)で演じられた能の形式を指します。番組順は〈翁〉→初番目物(脇能・祝言能、主に神がシテ)→狂言→二番目物(修羅能、主に武将がシテ)→狂言→三番目物(蔓物、主に優美な女性がシテ)→狂言→四番目物(雑能、物狂能を始めとした様々な曲)→狂言→五番目物(切能、主に鬼が中心)→祝言(半能の脇能)が正式な番組でした。以上のように五番立に基づいていますが、そもそも五番立は江戸時代に式能などで五流に一番ずつ曲趣が重複しないように割り当てるために作られた、演者側にとって便利な分類法でした。なお、番組の最後に祝言として脇能が半能(後場のみ)で演じられました。この名残が現在の附祝言です。江戸時代よりも演能時間が長くなった現代では、「式能」のような特別な催し以外では見られない番組立です。〔能楽研究家:後藤和也〕

シテ方五流の関係

まず宝生大夫と観世座の創設者・観阿弥が兄弟でした。金春禅竹は世阿弥の娘婿で観世と金春が親子関係でした。また、六世観世元広は金春禅鳳の娘婿で元広の子・重勝は宝生の養子となり宝生宝山として五世宝生宗家となっています。六世宝生勝吉は七世金剛氏正の子で金剛からの養子、十一世宝生友精は下掛宝生流三世宝生新次郎の子で下宝生からの養子、十二世友通は十八世金剛氏福の子で金剛からの養子、十三世友勝は十七世観世清尚の子で観世からの養子です。後年に金剛座から独立して喜多座を創設する金剛大夫の金剛三郎(後の北七大夫)は金春安照の娘婿でした。安照が金剛三郎に稽古をつけている記録が残っています。さらに観世座では八世観世元尚が五世宝生重勝の子で、十二世観世重賢は八世宝生重友の子で、ともに宝生座からの養子です。今回は触れられませんでしたが、同様のことがシテ方以外の役にも見られます。こうして見てくると、立合能など競うべき時は激しく競いつつも能楽界が大きな家族として記録が残る室町時代以来、長きにわたり芸をつないで来たことを強く実感します。

〔2020.07.08 能楽研究家 後藤和也〕

仕舞(しまい)の歴史

『禅鳳雑談(ぜんぽうぞうたん)』や下間少進(しもつましょうしん)の『童舞抄(とうぶしょう)』など江戸時代以前の「仕舞」の用例は「能の型・能の所作や舞い方」を意味していました。余興的な芸として室町時代から、酒宴の席で能の一部を舞う肴舞(さかなまい)・座敷舞がありましたが、現在の仕舞に通じる形式が成立したのは江戸時代初期です。古くはシテ方だけでなくワキ方が入った例も多く発見されています。

江戸時代の後半になると一般の素人にも仕舞が普及しました。これには謡の師匠が仕舞の師匠も兼ねていたことが指摘されています(表章氏「仕舞の成立と普及」)。

明治維新後は素謡とともに仕舞が能の稽古事としてさらに一般に普及しました。

 

〔能楽研究家:後藤和也〕

写楽

1794年(寛政6)頃の10ヵ月間だけ活躍した東洲斎写楽という謎の浮世絵師は、一説には徳島・阿波藩の喜多流能役者である斎藤十郎兵衛と言われています。

素謡(すうたい)の歴史

素謡は囃子(はやし)なしで謡のみを謡います。そのため地拍子(じびょうし)に拘束されない分、節扱いや曲趣を生かした謡となります。古くは曲舞謡(くせまいうたい)や祝言謡(しゅうげんうたい)として、観阿弥・世阿弥時代から謡われていました。番謡(一曲全てを謡う形式)も永禄年間(十六世紀後半)には一般的になっていました。また、世阿弥の時代から座敷謡が行われ、酒宴の場で能役者が謡を謡うことも多く大きな収入源でした。こうした謡文化が室町時代後半になると、公家や武家にも広がり、江戸時代になると庶民にまで謡が普及しました。それに伴い、本来は素人の謡愛好家のための「謡本」が数多く作られるようになりました。

〔能楽研究家:後藤和也〕

千利休と能

千宗易(1522~1591、のちの利休)の謡の師匠は宮王三郎でした。宮王は能の小鼓方で59世金春禅鳳の義甥です。宮王亡き後、その妻りきは千宗易の後妻(宗恩)となり、その子猪之助(のちの千少庵)も養嗣子となりました。少庵は、利休の娘を娶っています。

 
※「金春座には、金春禅竹以前から存在していた大蔵大夫をはじめ、宮王(みやおう)大夫、春日(しゅんにち)大夫などの傍流があったが、金春安照の三男氏紀が名跡を継いだ大蔵大夫(大蔵庄左衛門)以外は、江戸時代以前に絶えた」⇒「能・狂言事典」(平凡社)

薪御能(たきぎおのう)   奈良 春日大社 興福寺

【薪御能(たきぎおのう)】毎年5月の第3金曜日・土曜日に行われる奈良の風物詩です。平安時代中期に興福寺で行われていた修二会(しゅにえ)の舞楽が起源と言われています。篝火(かがりび)が焚かれる中、演じられる薪能の起源になったとも言われています。

薪御能では1日目の午前中に春日大社の舞殿で咒師走りの儀(しゅしはしりのぎ)、2日目の午前中に春日大社の摂社・若宮神社で御社上りの儀(ごしゃのぼりのぎ)が行われます。1日目・2日目の夕方から興福寺の南大門跡で南大門の儀が行なわれます。この薪御能では金春流・大藏流・金剛流・観世流・宝生流が奉仕します。

2018年5月
18日(金)薪御能 11:00~春日大社舞殿「翁 十二月往来」金春憲和

19日(土)薪御能 11:00~春日大社若宮社「玉葛」金春穂高

19日(土)薪御能 17:30~興福寺南大門跡「頼政」金春安明

⇒詳しくは奈良市観光協会のホームページへ

 

附祝言(つけしゅうげん)と追加(ついか)

【附祝言】公演を祝意に満ちた雰囲気のうちに終わらせる目的で、神仏が祝福をもたらす能の一部などを最期に地謡が謡うことをいいます。代表的なものは能〈高砂〉の「千秋楽は民を撫(な)で~颯々(さつさつ)の声ぞ楽しむ」を謡うもので、芝居や相撲の最終日を千秋楽または楽というのは、これに由来すると考えられています。古くは祝言能を上演していましたが、その簡略化です。当日の演目に〈高砂〉がある場合は、春であれば〈嵐山〉の「光もかかやく千本の桜~」、秋は〈猩々〉の「酔(エイ)に伏したる~」を謡います。なお、最後の演目が「乱」や「石橋」の場合はその曲自体が祝言能ですので、附祝言は謡いません。金春流の附祝言の作法ですが、装束を付けた最後の役者が橋掛かりの真ん中くらいに差し掛かったら、袴から手を出し、扇を斜めに持ちます。役者が幕に入り幕が下りたら謡い出します。他流とは異なりますので比較してご覧ください。

【追加】能が終わったあと常ならば附祝言がありますが、追善能などでは最後に、故人を偲び、ご冥福を祈るため、お弔いの謡を謡います。この小謡を「追加」と言います。金春流では、〈海人〉「佛法繁昌の霊地となるも。この孝養と承る」、〈融〉「この光陰に誘われて。月の都に。入りたもう粧い、あら名残惜しの面影や。名残惜しの、面影」を謡います。〔s.w〕

ツレ

能に現れる「ツレ」についてまとめてみましょう。

 古い謡本には「連」とも表記されているように、シテに連なる役、随伴・従属する役の意で「シテツレ」と呼ばれますが、ワキ方にも「ワキツレ」があります。ちなみに、江戸時代の金春流謡本で現行謡本に続く『六徳本』以前は、金春流の役名表記は「して・してつれ(連)」などひらがなで表記するのが特色でした(観世はカタカナで役名を表記)。

 ツレにはいくつかのパターンがあります。〈安宅〉の同行山伏はシテに連なるシテツレの代表例です。また、〈清経〉の妻など舞台の展開に重要な働きをする例も少なくありません。さらに、〈蝉丸〉のようにツレがシテに並ぶほどの働きをする例もあります。曲名の〈蝉丸〉はツレの名前です。前回の〈嵐山〉は前場と後場で役柄も変わる例です。余談ですが、金春流は下居の際、シテは右膝を立てますが、ツレは左膝を立てて座ります。

 これまでの研究(表章氏「能の同(音)と地(謡)」など)によれば、もともと現在の地謡にあたる役はなく、シテとワキが一緒に地謡の部分を謡っていました。やがて、声量などの問題から筋立てに関係のないシテツレやワキツレを出し、立役全員で地謡を謡っていました。その後、地謡を謡う地謡役が出るようになりました。室町時代の後半にはシテが地謡から撤退し、江戸時代の中頃にはワキも地謡から撤退して行きました。それに伴いツレが地謡を謡うこともなくなりました。〈敦盛〉などのシテツレ役は地謡を謡っていた頃の名残かもしれません。

能楽研究家 後藤和也

〔update 2021.05.05(水・祝)〕

テレビ

テレビ(NHK大河ドラマ):2011年「江~姫たちの戦国~」および2016年「真田丸」では金春流能楽師・山井綱雄が能楽監修・能指導。「真田丸」には、金春流能楽師が能役者の役で出演しています。

刀剣乱舞(とうけんらんぶ)

人気ゲームの『刀剣乱舞』は、パソコン版ブラウザゲームで、ミュージカル化、アニメ化もされています。公式略称は『とうらぶ』。名刀を擬人化した「刀剣男士」が合戦場の敵を討伐していく刀剣育成シミュレーションで、2015年にミュージカル化、2016年3月にはスマホ版が『刀剣乱舞 Pocket』として配信。そして、2016年10月にはアニメ化されています。2016年8月には、アプリのダウンロード数が150万を超えています。『刀剣乱舞』に登場する名剣で能に関連するものは、「小鍛冶(こかじ)」の子狐丸、「土蜘(つちぐも)」の膝丸(蜘切)、「鵺(ぬえ)」の獅子王などがあります。「小鍛冶」は、『刀剣乱舞』でも刀剣男士になっている名剣・小狐丸誕生の物語です。「かくてみ剣を打ち奉り、表に小鍛冶宗近と打つ。神体時の弟子なれば、小狐と裏に、あざやかに」〔s.w〕

豊臣秀吉と能

【豊臣秀吉と能】秀吉が能に熱中したのは晩年の文禄二年(1593・秀吉57歳)から慶長3年(1598・秀吉62歳)に没するまでのわずか6年たらずでした。秀吉は朝鮮出兵の指揮を執るため肥前・名護屋に下向しましたが、実際は時間を持て余していました。秀吉が関白職を譲ることになる甥の豊臣秀次は金春流の下間少進に師事し秘曲〈関寺小町〉を舞うほどの能好きで、秀吉の異父弟の豊臣秀長も金春安照を贔屓にした能好きでした。こうした環境の中、暮松新九郎が名護屋に訪れたことがきっかけとなり、秀吉の能楽熱中が始まりました。秀吉の能楽好きの特色は自らの演能を人に見せたがることでした。最初の50日ほどで〈松風・老松・三輪・芭蕉・呉服・定家・融・杜若・田村・江口〉10番を覚える熱の入れようでした。師の暮松新九郎が「人前で舞っても大丈夫」と太鼓判を押すほどの上達ぶりでした。そして、稽古を始めて9ケ月後の文禄二年(1593)10月5・6・11日に、禁中能を興行(後陽成天皇)。空前絶後の催しで秀吉は〈弓八幡・芭蕉・皇帝・三輪・老松・定家・大会・呉服・田村・松風・杜若・金札〉のシテを勤めています。翌・文禄3年3月1日には吉野蔵王堂宝前(吉野の花見)で〈吉野詣・源氏供養・関寺小町〉を、3月5日には高野山で〈老松・井筒・皇帝・松風・高野参詣?〉を演じています。同年の3月15日には大坂城で豊公能〈吉野詣・高野参詣・明智討・柴田・北条〉を演じています。秀吉の演能記録に残る曲は〈井筒・老松・杜若・邯鄲・金札・呉服・源氏供養・皇帝・関寺小町・大会・高砂・田村・定家・唐船・芭蕉・松風・通盛・三輪・頼政・弓八幡・吉野詣・高野参詣・明智討・柴田・北条〉の25曲です。

【秀吉の能楽保護】秀吉は猿楽諸座を大和猿楽四座(観世・金春・宝生・金剛)に統合・再編し、その上で各座に配当米・扶持米、すなわち、固定給を支給するよう制度化しました。これにより、猿楽(能)の役者は初めて生活の安定を得たと言えます。この政策は江戸時代にも引き継がれました。能にとって秀吉は最大の恩人の一人と言えます。

鳥養道晣 (とりかいどうせつ)

織豊時代の書家で版元。金春流61世金春喜勝(よしかつ)の右筆(ゆうひつ)的役割をつとめるうちに、謡本(うたいぼん)の節付けに熟達しました。文禄(ぶんろく)3年(1594)豊臣秀次につかえ,「謡抄」の編集にかかわりました。また「車屋謡本」といわれる謡本を刊行。慶長7年(1602)死去。屋号は車屋。

奈良金春会

76世金春広運(ひろかず)師の時代である1908年(明治41)に、第一回奈良金春会が催されました。今年(2020年)で112年という歴史ある会です。金春流はもともと奈良を本拠地としていました。そのため、79世金春信高師が1956年(昭和31)に東京へ移住した後でも、1962年(昭和37)に奈良金春能楽堂が奈良に建設されました。現在は御分家の金春穂高家が奈良を拠点とされています。なお、今年(2020年)は〈胡蝶〉を奈良金春会で復曲された金春信高師の生誕百年にあたる記念の年でもあります。

 

日本画

上村松園は名作「序の舞」のほか、能の曲名そのままの「花筐」、「砧」、そして能〈葵上〉をテーマにした「焔」を描いています。前田青邨の「出を待つ」は能〈石橋〉、「知盛幻生」は〈船弁慶〉がテーマです。

日本芸術院会員

日本芸術院会員は非常勤の国家公務員。任期は終身で、年間250万円が支給されます。2017年現在の院長は黒井千次氏。2017年12月15日時点での会員は104人、能楽界の会員は野村萬、梅若玄祥、友枝昭世、一噌仙幸、山本東次郎の5氏で、みなさん重要無形文化財各個認定保持者(人間国宝)です。

人間国宝(にんげんこくほう)

人間国宝とは、文化財保護法第71条第2項に基づき文部科学大臣が指定した重要無形文化財の保持者として各個認定された人物を指す通称です。文化財保護法には「人間国宝」という文言はありませんが、重要無形文化財の各個認定の保持者を人間国宝と呼ぶ通称が広く用いられています。2017年7月16日時点で、各個認定の保持者は112人(2017年7月21日時点で115人)。「重要無形文化財保存特別助成金」が交付されます。予算総額は2017年度で2億3200万円。各人に年間200万円が支給されます。

重要無形文化財(じゅうようむけいぶんかざい)とは、文化財保護法に基づいて、文部科学大臣によって指定された、無形文化財のことです。

無形文化財とは、特定の個人や集団が相伝し、体得している無形の技そのもの。特に重要な技として国が指定したものが「重要無形文化財」。重要無形文化財に指定された技を高度に体現できる者または正しく体得しかつ精通している者を「重要無形文化財保持者」として認定します。認定方法は、「各個認定」「総合認定」「保持団体認定」の3つです。

人間国宝とは、「各個認定」を受けた人のことを指します。「総合認定」とは、重要無形文化財に指定された技を2人以上の団体が一体となって体現または体得している場合に受けるもの。「重要無形文化財総合認定保持者」とは、この団体の構成員。

「各個認定」と「総合認定」はともに「保持者の認定」ですが、前者は特定個人の認定、後者はたとえば「日本能楽会」等の「保持者の団体の構成員」を総合的に認定するものです。「保持団体認定」は1975年の文化財保護法改正以降行われるようになったもので、社団法人等の団体自体を認定対象とします。以上のうち「人間国宝」と呼ばれるのは、一般的には各個認定の場合のみで、総合認定における団体の構成員、及び保持団体認定における当該団体およびその構成員については、人間国宝とは呼ばないのが通例です。

能楽界の人間国宝

シテ方:喜多六平太(喜多流14世宗家)、近藤乾三、櫻間道雄、後藤得三、豊嶋彌左衛門、松本惠雄、高橋進、8世観世銕之丞(静雪)、粟谷菊生、片山幽雪(認定時は9世片山九郎右衛門)、三川泉、友枝昭世(存命)、梅若実(認定時は玄祥)(存命)、野村四郎(存命)、大槻文蔵(存命) ワキ方:松本謙三、宝生弥一、森茂好、宝生閑  囃子方 笛:藤田大五郎、一噌仙幸 囃子方小鼓:幸祥光、幸宣佳、鵜澤壽、北村治、曾和博朗、大倉源次郎(存命) 囃子方大鼓(おおつづみ):川崎九淵(きゅうえん)、亀井俊雄、安福春雄、瀬尾乃武(のりたけ)、安福建雄、亀井忠雄(存命)、柿原崇志(存命) 囃子方太鼓(たいこ):柿本豊次、22世金春惣右衛門、三島元太郎 (存命) 狂言方:善竹彌五郎、6世野村万蔵、3世茂山千作、9世三宅藤九郎(7世三宅庄市)、4世茂山千作、野村萬(存命)、野村万作(存命)、4世山本東次郎(存命)

俳句

能に詳しかった松尾芭蕉は、能をふまえた句をいくつか詠んでいます。「むざんやな甲の下のきりぎりす」能〈実盛〉、「花の蔭謡に似たる旅寝かな」能〈忠度〉、「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉」能〈鵜飼〉。夏目漱石は能〈鉢木〉に因んだ「拂へども拂へどもわが袖の雪」、高浜虚子は「永き日のわれ等が為の観世音」という能〈田村〉に因んだ句を詠んでいます。

 

風姿花伝

世阿弥が記した能楽伝書。「花伝」とも。亡父観阿弥の教えを基に、能の修行法・心得・演技論・能の美学など世阿弥自身が会得した芸道の視点からの解釈を加えた著述で、「初心忘るべからず」「秘すれば花」など有名な文言が盛り込まれています。 金春家伝来の『風姿花伝』は奈良宝山寺に現存。

文学

泉鏡花の母・鈴は大鼓方中田万三郎の娘で、兄金太郎は宝生流シテ方の松本家に養子入りしましたので、その子松本長(ながし)は鏡花の従兄にあたります。長の長男は俳人松本たかし、次男は人間国宝の松本惠雄(しげお)です。夏目漱石はワキ方宝生流の宝生新に習い、能をたしなんでいます。芥川龍之介は金春流の能について触れたエッセイ「金春会の『隅田川』」を残しています。三島由紀夫の戯曲『近代能楽集』も能に典拠した有名な作品群です。

間部詮房

江戸時代の間部越前守詮房(まなべあきふさ、1666~1720)は、喜多流地謡方の出。側用人、老中格として徳川将軍6代家宣、7代家継に仕えました。

マンガ

手塚治虫『安達原』は能〈黒塚〉、「『火の鳥』羽衣編」は能〈羽衣〉により、成田美名子の『花よりも花の如く』(白泉社)1~18巻(2019年3月時点)は能を題材にした作品です。

無形文化遺産

ユネスコによる人類の無形文化遺産【能楽】

ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)は、世界の無形文化遺産保護の一環として、平成13(2001)年5月、歴史、芸術、民俗学、社会学、人類学、言語学、文学などの観点からたぐいない価値を有する伝統的文化の継承と発展を目的として、「人類の口承及び無形遺産の傑作の宣言」を行い、第1回傑作として能楽が選ばれました。その後、平成20(2008)年11月、無形文化遺産保護条約に基づき、上記の第1~3回の宣言を受けた90件が「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に初めて登録されました。

柳生新陰流

金春63世宗家金春氏勝は奈良に住んでいたました。柳生の庄に足しげく通い、柳生新陰流二世柳生宗厳石舟斎に剣を学びました。進歩著しく1601年(慶長6)、新陰流兵法目録本文と絵目録を石舟斎から受けています。さらに宝蔵院流槍術の達人でもありました。

安田善次郎

能楽再興・発展に寄与した人々②

安田財閥の創始者・安田善次郎(1838~1921)は宝生流謡曲を稽古。観世流をたしなんでいた大倉財閥の設立者・大倉喜八郎(1837~1928)を改流させて仲間に引き込み、三井財閥を支えた益田孝(1848~1938)も同好の士でした。

落語

能・狂言を題材にした落語に、「高砂や」「船弁慶」「能狂言」などがあります。

「埒(らち)を明ける」

「埒を明ける」は広辞苑・第六版によれば、「物事のきまりをつける。はかどらせる」とあります。「埒」は「馬場の周囲の柵」ですが、この語源は、「春日若宮おん祭」の「金春の埒あけ」とも言われています。

乱拍子(らんびょうし)

道成寺に行われる古い伝統をひく特殊な舞事(まいごと)。小鼓だけが鋭い掛声をかけ長い間を測って打つ音にあわせてシテは動きます。道成寺の乱拍子は古来金春流のものとされ、観世流は檜垣(ひがき)、宝生流は草子洗(そうしあらい)、金剛流は住吉詣(すみよしもうで)(子方が踏む)にそれぞれ乱拍子を伝えていますが、ほとんど上演されません。⇒「能楽ハンドブック」(三省堂)

レナード・バーンスタイン

「能の緊張感・エネルギー・集中力は日本人が特別にもつ才能だ、能の動きに、マーラーの交響曲第五番のアダージョを指揮できる秘訣・極意がある、あのゆったりと美しい曲は、能に通じる手の動きだけで指揮できるのだ」(指揮者・佐渡裕氏談)

他言語での閲覧について

  • 言語を選んで、概要の理解にご利用ください▼アラビア語/イタリア語/スペイン語/ドイツ語/フランス語/ポルトガル語/ロシア語/英語/韓国語/中国語(簡体)
金春会定期能
2021年
6月6日(日)12:30開演
「春日龍神」森瑞枝
「杜若」長谷川純子
「葵上」梅井みつ子

9月12日(日)12:30開演
「頼 政」本田芳樹
「野 宮」金春康之
「恋重荷」髙橋 忍
円満井会定例能
2021年
6月26日(土)12:30開演
「加 茂」柏崎真由子
「角田川」本田 芳樹
「熊 坂」岩松 由実

9月25日(土)12:30開演
「巴」   中野由佳子
「富士太鼓」村岡聖美
「阿  漕」本田布由樹

矢来能楽堂

金春流の特別行事

薪御能
2021年5月 興福寺/春日大社
21日(金)薪御能 11:00~春日大社舞殿「翁 十二月往来」金春憲和
22日(土)薪御能 11:30~春日大社若宮社 「野守」金春穂高 17:30~興福寺南大門跡「葛城」金春安明
大宮薪能
2021年 第40回記念
6月12日~無観客 無料動画配信 大宮氷川神社
轍の会
2021年7月4日(日)
13:30~国立能楽堂 
「遊行柳」本田光洋
「通小町」櫻間金記
座・SQUARE
2021年7月19日(月)
17:30~国立能楽堂
「夕顔」井上貴覚
「大会」山井綱雄
金春祭り
2021年8月7日(土)18:00~
能楽金春祭り 銀座金春通り
路上奉納能 弓矢立合ほか
鎌倉薪能
2021年10月
8日(金)鎌倉宮境内 鎌倉・大塔宮
9日(土)
春日若宮おん祭り
2021年12月17日(金)・18日(土)
春日若宮御祭礼式能
奈良市春日大社
弓矢立合、神楽式ほか