金春流〈関寺小町〉上演記録集
能楽研究家 後藤和也
(金春月報2021年11月号・12月号掲載記事)

金春流〈関寺小町〉演能記録集(1)

金春流〈関寺小町〉演能記録集(1)                  能楽研究家 後藤和也

1.天正20年(1592)4月15日前田玄以(げんい)  下間少進(しもつましょうしん)42歳)

【番組】下線は下間少進、〈翁〉春日三郎四郎(しゅんにちさぶろうしろう)他曲は春日大夫(しゅんにちだゆう)(どういく)がシテ

〈翁・白髭・実盛・井筒・自然居士・山姥関寺小町道成寺松風紅葉狩・鵺・二人静猩々乱(うとう)三輪・高砂キリ〉

【四座役者目録・関連記事】秀次関白殿、関寺を所望なさる。「近代は金春にせず、師匠なきにより、これは知らぬ」と申さる。関白殿、「道智・道叱、または一噌などと談合し、致されよ」と仰せらるるにつき、ちと談合して、さて仕まつらる。※〈関寺小町〉演能が関白豊臣秀次の所望によるもので、伝授を受けていなかった少進が囃子方と相談し〈関寺小町〉を演じたたことが分かる。下間少進は生涯で15回〈関寺小町〉を舞っている。

【下間少進】本願寺の坊官。天正8年織田信長と石山本願寺との和議成立に尽力。素人ながら金春大夫(よしかつ)の弟子で事を相伝、後半生はむしろ能役者として秀吉・家康時代に四(観世・宝生・金春・金剛)の大夫以上に活躍した。残された記録(『能ノ留帳』)だけでも28年間で1170番もの能を舞っている。豊臣秀次・松平忠吉(徳川家康第四子)の能の師匠でもあった。型付集である『童舞抄(とうぶしょう)』は金春流最古の型付集の一つ。

2.文禄3年(1593)2月1日  大坂城西丸(太閤豊臣秀吉御覧) 下間少進

【番組】〈関寺小町〉のみ下間少進がシテ

〈翁・高砂・江口・葛城・関寺小町・三輪・小町(かよいこまち)呉服(くれは)          

3.文禄3年(1593)2月9日  大坂城本丸 豊臣秀吉

【番組】シテは豊臣秀吉

〈吉野詣・田村・関寺小町・源氏供養・老松〉

【豊臣秀吉】 金春流の能を習う。自身の経歴や功績を題材とした太閤能(豊公能)を大村(ゆうこ)に作詞させ、金春大夫安(だゆうやすてる)が節付けした。〈吉野詣(よしのもうで)〉は「秀吉が吉野山へ行くと蔵王権現の化身に会い、吉野山の縁起を聞き様々な奇跡を見る」という内容で太閤能の一つ。他に〈高野(こうや)参詣・明智討・北条・柴田・この花〉の6曲が伝存するが、計10曲あったと伝えられている。〈この花〉は「吉野の桜だけでなく難波津の梅も愛でてほしいと訴える」内容で、2000年に金春安明先生が所蔵の番外謡本の中から発見、200210月に「座・SQUARE5周年記念特別公演」でシテ・高橋忍師、地頭・金春安明師、後見・高橋汎師、本田光洋師により金春流初演。

4.文禄3年(1593)3月1日  吉野蔵王堂  豊臣秀吉

【番組】〈吉野詣・源氏供養・関寺小町〉を秀吉、〈志賀〉を金春七郎、他は武将・大名

〈吉野詣・源氏供養・夕顔・葵上・関寺小町・女郎花・三輪・当麻・志賀〉

【補説】『駒井日記』によれば秀吉は〈関寺小町〉という秘曲の伝授がよほど嬉しかったらしく、後陽成天皇の前で〈関寺小町〉を舞うことを計画していた。だが、この計画は企画だけに終わり豊臣秀吉の上手くないであろう〈関寺小町〉を後陽成天皇は見なくてすんだ。なお、この記録により〈吉野詣〉が吉野で秀吉が舞うために事前に作られた事が分かる。

5.文禄5年(1595)5月5日晩  下間少進宅  下間少進

【番組】〈弓八幡〉以外は下間少進がシテ、他は春日三郎四郎

〈弓八幡・松風・鵺・関寺小町・安宅〉

6.文禄5年(1595)6月19  本願寺北ノ御所  下間少進

【番組】〈関寺小町・安宅〉が下間少進シテ、他は春日大夫道郁、春日三郎四郎がシテ

〈白楽天・朝長・関寺小町・烏頭・安宅・東岸居士・猩々〉

【補説】前年7月に豊臣秀次が関白の地位を奪われ高野山で自殺したのに伴い、下間少進  は活動を本願寺周辺にほとんど限定されていた不遇期の晴の〈関寺小町〉だったらしい。

7.慶長2年(1597)3月13  広島城二丸舞台  下間少進

【番組】シテは全て下間少進

〈高砂・(さねもり)湯谷(ゆや)・春日龍神・関寺小町・船弁慶・柏崎・邯鄲(かんたん)・猩々乱〉                

【補説】本願寺と縁がある能好きの武将・毛利輝元が不遇期の下間少進を広島城に呼び得意曲である〈関寺小町〉を舞わせたらしい。

8.慶長3年(1598)2月11  興福寺薪能  金春七郎(しちろううじかつ)23歳)

【番組】薪猿楽第6日、宝生は御社上りの日、南大門で三座(観世・金春・金剛)の立合

〈江嶋(観世大夫(ただちか))・葵上(金春七郎氏勝)・春永(金剛七ツ大夫、後の喜多七大夫)・仏原(観世若大夫)・関寺小町(金春七郎氏勝)・東岸居士(金剛七ツ大夫)〉

【金春七郎氏勝】金春大夫安照の長男で後の金春大夫。この頃は金春若大夫と呼ばれていた。氏勝は柳生新影流や宝蔵院流槍術の達人でもあった。『四座役者目録』には「兵法を好く。能、上手にてなし。不拍子なり。大胆なる人にて、八郎(父の安照)に習はぬ能をも推量にしたること多し」とあり、〈関寺小町〉も安照に習わずに無断で舞ったらしい(安照はこの年の薪猿楽には不参加。その留守を狙ったか)。『金春家祖先(ならびに)伝来之(げいでんらいの)由緒帳(ゆいしょちょう)』によれば、無断で〈関寺小町〉を舞ったことも一因となり、一時、安照から勘当されている。生涯、〈関寺小町〉を舞わなかった安照にしてみれば、23歳で〈関寺小町〉を舞ったことが許せなかったのだろう。氏勝があえて〈関寺小町〉を舞ったのは、弟子筋である下間少進が自身の占有曲であるかのように〈関寺小町〉を舞っていることへの反発があったのかもしれない。

9.慶長3年(1598)6月15  本願寺門跡邸  下間少進

【番組】〈実盛・関寺小町・柏崎・紅葉狩〉のシテが下間少進、他は春日大夫道郁

〈白楽天・実盛・関寺小町(やまんば)柏崎・(うとう)・紅葉狩〉

【補説】主客は筑前守小早川秀秋。能好きな武将で〈羽衣・東岸居士〉等を舞った記録がある。この催しの二か月後に豊臣秀吉が63歳で没す。

10.慶長7年(1602)4月21  清州城北之丸舞台  下間少進

【番組】〈関寺小町・項羽〉のシテが下間少進

(やたてかも)・田村・湯谷(ゆや)善知鳥(うとう)関寺小町・黒塚・源氏供養・項羽〉

【補説】〈矢卓鴨・湯谷・善知鳥・黒塚・源氏供養〉を松平下野(しもつけのかみ)(ただやす)(家康の四男)が舞っている。彼は少進から『童舞抄』の相伝をうけ、また、宝生大夫(ただかつ)父子をも後援した。関ヶ原の合戦後、活動が出来なかった少進だったが、松平下野守の後援をうけ復活した。なお、松平下野守は〈卒都婆小町・道成寺〉も舞い本格的稽古をしていたらしい。

11.慶長10年(1605)8月16  本願寺門跡邸  下間少進

【番組】全てシテは下間少進

〈矢卓鴨・頼政・熊野・道成寺・邯鄲・関寺小町・安宅・融・猩々乱〉

【補説】家康身辺の武将達が主客。上記の曲を一人で演じるとは現代では考えられない。能の質的変化の大きさが実感できる番組内容である。

12.慶長10年(1605)9月21  禁中女院御所  下間少進

【番組】〈翁・紅葉駈(もみじがり)・養老〉を春日大夫三郎四郎、他は下間少進がシテ

〈翁・白楽天・清経・湯谷・紅葉駈・関寺小町・道成寺・自然居士・猩々乱・女郎花・烏頭・養老〉

【補説】禁中は宮中のこと。当時の女院は後陽成天皇の生母である新上東門院で、前年にも観世大夫身愛が能を女院御所で舞っており、女院は能が好きだったらしい。

13.慶長11年(1606)3月25  清州城北丸舞台  下間少進

【番組】〈養老・弓八幡〉が宝生大夫、〈紅葉狩〉が宝生子、他は下間少進がシテ

〈養老・清経・湯谷・紅葉狩・邯鄲・関寺小町・安宅・葵上・烏頭・弓八幡〉

【補説】城主松平下野守忠吉は翌年に没し、宝生大夫や少進は後援者をなくし痛手だった。

14.慶長15年(1610)9月26  本願寺門跡邸  下間少進

【番組】〈鵜羽(うのは)〉は春日彦三郎、他は下間少進がシテ

〈白楽天・清経・松風・道成寺・関寺小町・藤門・鵜羽〉

【補説】〈関寺小町〉に「ちご之舞 源五」とあり当時7歳の少進の子が子方を演じている。

15.慶長16年(1611)4月22  本願寺  下間少進

【番組】〈難波・呉服キリ・かん陽宮・源氏供養・鵜羽〉が春日大夫三郎四郎と子の彦三郎、他は下間少進がシテ

難波(なにわ)・清経・湯谷・呉服(くれは)キリ・かん陽宮(ようきゅう)関寺小町・道成寺・(やま)(ん)(ば)・源氏供養・鵜羽〉

【補説】「是も俄に御所望 ちご 源五」の注記が〈関寺小町〉にある。「俄」に〈関寺小町〉を舞うとは現在では考えられない。秘曲とは言え今よりは扱いが軽かったのだろう。

16.慶長16年(16111029  江戸城  下間少進

【番組】〈白楽天・千寿・しょうき・融・項羽・猩々〉を金春大夫安照、他は少進がシテ

〈白楽天・頼政・千寿・昭君・関寺小町・しょうき・融・女郎花・項羽・春日龍神・猩々〉

【補説】江戸で演じられた初めての〈関寺小町〉で、下間少進が金春大夫安照の前で〈関寺小町〉を舞ったのは、この時が最初で最後だった。江戸や駿府でかなり話題になったことが『駿府記』に記されている。なお、安照は少進が安易に秘曲を舞うことに反発してか、〈関寺小町〉を舞わずに73歳で没した。しかし、子や弟子には〈関寺小町〉を相伝しており、最奥の秘曲として位置づけていた。

17.慶長18年(16131022  禁中  下間少進

【番組】演者名のない曲は下間少進がシテ

〈翁(虎屋左兵衛)・矢卓鴨・頼政・湯谷・舟弁慶(源五)・関寺小町・黒塚・少塩(源五)・柏崎・山姥・融・玉鬘・藤門・呉服〉

18.慶長19年(1614)8月20  本願寺門跡舞台  下間少進

【番組】〈清経・江口・関寺小町・道成寺・三輪・鵜飼・猩々乱〉のシテが下間少進

〈難波・清経・江口・鵺・関寺小町・道成寺・三輪・鵜飼・源氏供養・野守・養老キリ・猩々乱〉

【補説】下間少進最後の〈関寺小町〉。時に64歳で〈道成寺・猩々乱〉も一緒に舞っているのはやはり驚異的。少進は2年後に66歳で没、家康の死から4週間後のことだった。                                                                             

金春流〈関寺小町〉演能記録集(2)

金春流〈関寺小町〉演能記録集(2)                  能楽研究家 後藤和也

19.元禄2年(1689105   阿部豊後守正武邸    金春大夫八郎元信

20.元禄3年(1690)5月22日   尾張中将綱誠邸      金春大夫八郎元信

21.元禄4年(16911212  牧野備後守成貞邸    金春大夫八郎元信

22.元禄4年(16911215  柳沢出羽守吉明邸    金春大夫八郎元信

23.元禄5年(1692)8月9日    松平安芸守綱長邸    金春大夫八郎元信

24.元禄5年(1692)8月26   柳沢出羽守吉明邸    金春大夫八郎元信

25.元禄7年(1694)7月19   松平加賀守綱起邸    金春大夫八郎元信

26.元禄8年(1695)5月25   柳沢出羽守吉明邸    金春大夫八郎元信

27.元禄10年(1697)頃         江戸城本丸休息之間  金春大夫八郎元信

28.元禄14年(17011022日  江戸城本丸表舞台   

29.元禄15年(1702)1月30   尾張宰相吉通邸    

【補説】上記は金春禅竹から数えて9代目の金春大夫八郎元信の〈関寺小町〉の演能記録を、子の重栄(しげなが)(後の金春大夫)が集成した『重栄控』に基づく。識語に「世の末に成」と記すように秘曲化の進んだ当時では驚くべき回数で、金春流の衰運を招いた大夫。幕府から若い頃「その芸未熟」と叱責されたが、晩年には名人と評した記録もあるクセの多い人物だった。

30.昭和21年(19461017日 京都金剛舞台 金春光太郎師     

31.昭和30年(195510月1日   水道橋能楽堂  桜間弓川師

32.昭和31年(1956)1月28   大槻能楽堂    金春八条師(「八条」は金春光太郎師の号)

33.平成10年(19983        国立能楽堂    金春信高師(信高師体調不良のため曲の終盤を金春晃実師が代演)

34.平成23年(2011124   国立能楽堂    金春安明師(髙橋汎師病気降板のため金春安明師が代演)                                                                                       

金春流〈関寺小町〉演能記録集(3)

金春流〈関寺小町〉演能記録集(3)                能楽研究家 後藤和也

【参考文献】

表章・牛尾美江「関寺小町演能史」『観世』昭和61年6~9月

『能楽大事典』筑摩書房

【補記】

・世阿弥『音曲口伝』に〈関寺小町〉の記事アリ

・金春禅竹『歌舞髄脳記』に「小野小町 妙花風」とあるが、〈関寺小町〉か〈卒都婆小町〉かは不明

・金春禅鳳『禅鳳雑談』に〈関寺小町〉のクセの謡についての記事アリ

・室町時代の〈関寺小町〉の演能記録はナシ

・江戸時代終わりまで各流、通して〈関寺小町〉の演能は確認されている分で68回、うち金春流が29回(秀吉2回も含む)、明治から昭和までで各流合わせ22回、うち金春流が3回。                                                                                           

豊公能・太閤能

【豊公能・太閤能】実際の秀吉の事績を題材にした能。成立時期は文禄三年(1594)3月以前に成立。もともとは10番あったと伝えられています(《高野参詣》の奥書)。いずれも作詞は大村由己、作曲は金春安照。この時期は上演を前提とした新作活動は終わっていて、上演を前提とした新作としては最後にあたります。能を愛好した武将(足利義満・徳川家康・徳川綱吉・徳川家宣など)は数多くいますが、自らの事績を題材に能を作らせ、しかも、実際にその能を自ら舞っているのは秀吉一人だけです。

〈吉野詣〉吉野に参詣した秀吉の前に蔵王権現が現れ秀吉の世を賛美する。

〈高野参詣〉高野山に参詣した秀吉の前に母・大政所が現れ秀吉の孝行を称えます。

〈明智討〉秀吉が光秀を討ち主君・信長の恨みを晴らした山崎合戦を描きます。

〈北条〉北条氏政の霊が現れ秀吉が小田原攻めの際に籠城の末、自害した最期を語ります。

〈柴田〉柴田勝頼の霊が現れ賤ケ岳の戦いで秀吉に討たれ自害した最期を語ります。

〈この花〉秀吉の前に梅の精が現れ、秀吉の世の天下泰平と長寿を祝福します。⇒詳しくはこちら

金春安照

【金春安照について】天文18年(1549)から元和7年(1621)没。第62世金春宗家。第61世金春宗家・金春喜勝の次男(長男は早世)。秀吉から最も贔屓にされ金春流の隆盛をもたらしました。その芸は高く評価され徳川家康・秀忠にも一目置かれていました。『金春安照仕舞付・金春安照装束付』と称される伝書や金春安照自筆本(謡本)が現存。晩年の秀吉は金春安照を身近に置き能に熱中していました。

豊臣秀吉と能

【豊臣秀吉と能】秀吉が能に熱中したのは晩年の文禄二年(1593・秀吉57歳)から慶長3年(1598・秀吉62歳)に没するまでのわずか6年たらずでした。秀吉は朝鮮出兵の指揮を執るため肥前・名護屋に下向しましたが、実際は時間を持て余していました。秀吉が関白職を譲ることになる甥の豊臣秀次は金春流の下間少進に師事し秘曲〈関寺小町〉を舞うほどの能好きで、秀吉の異父弟の豊臣秀長も金春安照を贔屓にした能好きでした。こうした環境の中、暮松新九郎が名護屋に訪れたことがきっかけとなり、秀吉の能楽熱中が始まりました。秀吉の能楽好きの特色は自らの演能を人に見せたがることでした。最初の50日ほどで〈松風・老松・三輪・芭蕉・呉服・定家・融・杜若・田村・江口〉10番を覚える熱の入れようでした。師の暮松新九郎が「人前で舞っても大丈夫」と太鼓判を押すほどの上達ぶりでした。そして、稽古を始めて9ケ月後の文禄二年(1593)10月5・6・11日に、禁中能を興行(後陽成天皇)。空前絶後の催しで秀吉は〈弓八幡・芭蕉・皇帝・三輪・老松・定家・大会・呉服・田村・松風・杜若・金札〉のシテを勤めています。翌・文禄3年3月1日には吉野蔵王堂宝前(吉野の花見)で〈吉野詣・源氏供養・関寺小町〉を、3月5日には高野山で〈老松・井筒・皇帝・松風・高野参詣?〉を演じています。同年の3月15日には大坂城で豊公能〈吉野詣・高野参詣・明智討・柴田・北条〉を演じています。秀吉の演能記録に残る曲は〈井筒・老松・杜若・邯鄲・金札・呉服・源氏供養・皇帝・関寺小町・大会・高砂・田村・定家・唐船・芭蕉・松風・通盛・三輪・頼政・弓八幡・吉野詣・高野参詣・明智討・柴田・北条〉の25曲です。

【秀吉の能楽保護】秀吉は猿楽諸座を大和猿楽四座(観世・金春・宝生・金剛)に統合・再編し、その上で各座に配当米・扶持米、すなわち、固定給を支給するよう制度化しました。これにより、猿楽(能)の役者は初めて生活の安定を得たと言えます。この政策は江戸時代にも引き継がれました。能にとって秀吉は最大の恩人の一人と言えます。

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金春流の定例公演

金春会定期能
2024年
4月7日(日)12:30開演
「加 茂」政木哲司
「西行桜」髙橋 忍
「船 橋」山井綱雄
円満井会えんまいかい定例能
2024年
4月13日(土)12:30開演
「春日龍神」本田布由樹
「百万」  岩松由実

矢来能楽堂

金春流の特別行事

薪御能
2024年5月
17日(金) 興福寺/春日大社
18日(土) 興福寺/春日大社
大宮薪能
2024年5月
24日(金) 大宮氷川神社
25日(土) 大宮氷川神社
轍の会
2024年7月7日(日)
国立能楽堂 
「清経 恋ノ音取」本田芳樹
「伯母捨」櫻間金記
座・SQUARE
2024年7月15日(月・祝)
13:00~国立能楽堂
「班女」井上貴覚
「鞍馬天狗」山井綱雄
金春祭り
2024年8月7日(水)18:00~
能楽金春祭り 銀座金春通り
路上奉納能 獅子三礼
鎌倉薪能
2024年10月11日(金)
鎌倉宮境内 鎌倉・大塔宮
春日若宮おん祭り
2024年12月
17日(火)
18日(水)
春日若宮御祭礼式能
奈良市春日大社
弓矢立合、神楽式ほか